長編小説『バロックの空に天使が山のようにバタバタしてた頃の』アートスクールの生徒、光軌は先生の維織に恋をして家に転がり込む。

投稿2

R18

Part1のあらすじ

あらすじ/維織(いおり)は優秀なアートディーラー。仕事が忙しいのに好きな男、鉄司(てつし)のためにアートスクールの講師を引き受けた。鉄司はスクールの理事を努めている。

しかし伊織は浮気され、やけ酒で酔い潰れたところを生徒の光軌(こうき)に見付かり、家に連れ帰ってもらう。翌朝、維織と光軌は美術に関して心が通じ合うことを発見する。

鉄司は維織に強制的に性行為を迫るようになり、維織もそれに溺れていく。

光軌はルームメイトとケンカして維織の所に転がり込む。維織は光軌の健康的な性格に惹かれていく。講師の仕事が終わった時、鉄司と別れる決心をする。

維織は自分自身も画家で、バロック調の写実的な作風でエロティックな男性を描いている。光軌はモデルを引き受け、ふたりは次第に接近していく。

KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA 

Part1: 1-22, Part2: 23-42, Part3: 43-60, Part4: 61-76, Part5: 77-93

Part1

1

鉄司のいない生活は考えられない。もういないのだからしょうがないし。できることは全てやった。俺にしては未練がましく追ってみたりもした。校舎を出て通りを歩いているうち、俺の感情が諦めから悲しみに変わって、マジで涙が出そうになって、でも俺みたいなクールな大人の男に涙は似合わないと思って、そこらのバーに入って、ウォッカをロックで飲み始めた。カウンターに座って、でも外からは見えないように背を向けて。俺の生徒達に見付からないように。金曜の放課後。2杯目はダブルで頼んで、それが空になる頃には、鉄司に関する驚きも怒りも諦めも悲しみも、酒で温まった脳の中に溶けてなくなっていった。

2

「先生?」

こんなに学校に近いバーで見付からないわけはない。顔は知ってるけど名前がしばらく出て来ない。俺は思ったより酔っている。光軌。俺はなにも言わずにソイツの方を見る。

「先生、大分飲んでますね。」

光軌は俺の隣の席に座って、

「こんな所で珍しい。」

ここは美術学校と音楽学校の両方から近いゲイバーで、さっきから俺の向かいに座ってる男達が人目もはばからずにキスしている。バーテンダーが俺の何杯目かのウォッカをカウンターに置く。光軌は持っていたビールを飲み始めた。

「先生がゲイかどうかは、俺達の間でも議論になってて。」

言わなかっただけで隠していたわけではない。俺は腕を組んでソイツの方を睨む。

「なにかあったんだったら相談に乗りますよ。」

こんな若造になにを言ってもしょうがないと思って、俺はますます黙り込む。別れたというか、逃げられたというか、浮気された、理事の鉄司に頼まれてやってる美術学校の講師。これからどうすればいいんだろう?まだアートビジネスのコースは始まったばっかりで。しかし俺にはなんのモチベーションもない。そんな心を読んだみたいに、

「先生の授業好きですよ。」

俺はやっと口を開く。

「それはよかった。」

皮肉を込めて。

「ほんとですよ。」

俺はとっくに許容量を越えた酒を喉に流し込む。

「今日のもカッコよかったですよ。ビジネスなんてちょっと頭を使えば分かる。俺の教えたいのはそんなことじゃない。なーんて。」

どんな顔して言ってるんだろ、って思って見たら、意外と真面目な顔をしている。

「本物のアートディーラーから教えてもらえるなんて、俺達ラッキーですよ。」

その辺から記憶がない。

3

俺のマンションは10階で窓が天井から床まであって、高所恐怖症の人は絶対住めないようになっている。都合のいいことに二日酔いで、男に逃げられたことは考えなくていい。俺は寝る時はいつも素っ裸で、周りに建物がないのをいいことに、窓に近付いて俗世界を眺める。小さな虹が出ている。これから成長するのか、消えて行くところなのか、それは分からない。

「へえ、先生、すごくいい身体してるんですね。」

突然後ろから声がする。ベッドの中に光軌がいる。コイツに醜態を見られたなって思った瞬間、こういう時の俺の習性で、カッコつけようとしてひと言、

「虹が出ている。」

光軌は跳ね起きて、窓の外を見る。

「ほんとだ!あれ、でも虹ってこんな朝から出るものなんですね。」

「朝だって雨が降れば出るだろう?」

彼は俺の身体を上から下まで見て、

「よく鍛えてるんですね。」

俺は床に散乱している服を着る。そして疑問が浮かぶ。

「ここまでどうやって帰って来れたんだろう?」

「あ、それはね、先生のケータイ見たらその鉄司さんっていう人が1番たくさん電話かけて来てたから、その人に聞いたんです。」

マジかよ?鉄司にだけはこんなこと知られたくなかった。

4

二日酔いの頭でぼんやりそんなことを考えていると、鉄司から電話。

「維織、大丈夫なのか?」

「ああ。」

「あの電話の生徒は誰だ?」

「余計なお世話だろう?」

「お前が教えている間になにかあっては困る。」

「教えたくて教えてるわけじゃないし。俺、十分忙しいし。」

「仕事はちゃんとしろ。生徒には手を出すな。」

それだけ言って電話が切れた。相変わらず偉そうな男。

そしたらよく取引しているNYのディーラーから電話。

Hi, Chelsea. Yes, I’m fine.(やあ、チェルシー。俺は元気だよ。)」

そのまま商談が続いて、考えたらあっちはまだ金曜日。俺がエージェント契約している日本人画家の絵を、彼女はNYでよく売ってくれる。俺はそのまま仕事を続けて、そうこうしてるうちに二日酔いもよくなって、なにか食べようかなと思ってキッチンへ行くと、そこに誰かが座っている。

「アートディーラーってカッコいいですね。」

「まだいたの?」

「ここまで先生を連れて来るの大変だったんだから。」

「それはどうもありがとう。」

「全然ありがたそうじゃないし。俺、苦学生なんだからタクシー代ちゃんとくださいよ。」

「オーケー。」

「冗談です。先生のクレジットカード使いました。」

そんな勝手に、と思ったけど黙った方がいいと思ったから黙っておいた。

「先生のスタジオ見ましたよ。絵を描かれるんですね。知らなかった。色んな画家の絵が置いてあって。どれが先生の絵なんですか?」

今までクラスで俺が絵を描くなんて言ってないし、見せるつもりもなかったし。でも別に断る理由もないし。

5

「これですか?1番意外です!」

俺はその時初めてちゃんと光軌のことを見た。肩まであるウエーブのかかった髪。若くて細い身体。今風のファッション。可愛いんだろうな、一般的に見たら。俺は鉄司みたいにマッチョなのが好みだから。

「俺、カラバッジョ好きだから、こういう絵、理解ありますよ。バロックの空に天使が山のようにバタバタしてた頃の。こんなに写実なんだ。ほとんど細密画ですね。」

「俺がどんな絵を描いてると思った?」

「そうですね、クールな現代抽象画?」

「さっき先生の画材ちょっと使っちゃった。先生みたいな人でも意外と安い絵の具使ってるんですね。」

「絵を描いてたの?君は絵を描くの?」

「そりゃそうですよ。なんでですか?」

「俺のクラスに来るのはもっとビジネス志向なのかと思った。」

「そういう人もいるかもだけど。俺は2浪して、美大全部落ちたからあの学校にしたんです。」

「へえ、そんな人もいるんだな。」

「いけませんか?」

「いや、俺は家系的に絵描きが多くて。」

「エリートってことですか?俺はね、絵は描けるけど勉強ができないんです。発達障害?」

俺は机に乗っている彼の絵を観た。小さいサイズの、クールな現代抽象画。

「チューブから直接描くんだな。水も使わずに。」

「よく分かりますね。」

「ほとんど混色した形跡がない。」

「どうしても混色したい時は絵の上に出して急いで混ぜるんです。」

「なんで?」

「チューブから出すと色がすぐ死んでしまう。その前に捕まえるんです。」

「そんな話し聞いたことない。」

「色には生命があって、空気に触れると死んでしまう。」

「誰にそんなことを聞いた?」

「色に。」

彼に近付いて、今それを言った唇に触れてみた。真実を知ってる唇。

6

「先生、俺、今分かった。先生には3つの顔があって、ひとつは先生モードで、それからアートディーラーモードで、それからアーティストモード。全然違う。」

「じゃあ、今の俺は?」

「アーティストモード。こういう天使をたくさん描いてるアーティスト。バロック時代によくあったみたいな。」

「あれはね、あの頃はほんとにああいう風にバサバサ飛んでたから。」

「なにが?」

「天使達が。」

「じゃあ先生はあの頃、本当に空には天使がたくさんいたって?」

「当然。だって絵に残っている。」

「俺、もうひとつ分かった。」

「なに?」

「先生と俺、絵の話しが通じる。そういう人はほとんどいない。俺の絵。分かってくれる人がいない。」

7

俺は今度は彼の髪に触れてみた。背が俺より高い。だから俺は彼の肩くらいにある髪に触れて、少し広げてみる。

「先生、なに?」

「君がほんとに存在するのか。」

「どうですか?」

「分からない。」

「でも触ったら分かるでしょう?」

「そうとも限らない。」

「じゃあこれは?俺がさっき描いた絵。」

「それでも分からない。」

「じゃあなにか定義してください。俺のこと。」

「空気?」

「それは困ります。」

「幻?」

「それも困ります。」

「なんで?」

「もうちょっと存在していたい。」

「無理だ。」

8

俺は彼の絵を手に取って、その色を感じてみる。オレンジとピンクの。それは俺の安手の12色入りのアクリルで描いてある。だからオレンジはチューブからそのまま、そしてピンクは彼の言うように画用紙の上で急いで混ぜられた白と赤。でもこの色はほんとに存在するのだろうか?俺の視覚はどこまで信用できるんだろう?

「先生、自分の目を信じられなかったら、自分も存在できませんよ。」

そうだよな。その通りだとは思うけれど。じゃあ自分の目は信じるとして、そしたらこのオレンジとピンクは存在することになる。

「この色が存在するなら、俺も存在することになるでしょう?」

「不思議だな。君は俺の考えてることが分かるんだ。」

「先生は?」

「俺は君の考えてることがさっぱり分からない。」

光軌は明るく笑って、

「俺達ね、そのうちセックスしましょうよ。そしたら分かりますよ。」

9

アートビジネスのクラスの日。ファンシーなアートスクールの、ファンシーな建物。鉄司に会わないといいな、と思ってたら、わざわざ校舎の入口に立って待っていた。無視して通り過ぎようとしたら、ガッチリ腕をつかまれて、ムカついたから、

「なんだ?」

って聞いてやった。

「お前がちゃんと来るか心配だった。」

「心配するようなことをする方が悪い。」

「授業の評判はいい様だから。」

「それはよかった。」

俺が立ち去ろうとすると、

「どうもありがとう。」

「どういたしまして。」

皮肉を込めて。コイツの側にいるとイヤでもあの体温を感じて、いたたまれなくなる。鉄司は性格は悪いけど、顔も身体もよくて、セックスもよかった。でも思い出したくはない。

10

教室に入る。生徒は30人くらい。ここは専門学校で、年齢はよくある街の絵画教室より若い。光軌は教室の真ん中くらいの席にいて、そのくらいだと意識しなくてよくて丁度いい。なんて言われたっけ?俺とセックスすると考えてることが分かるとか、そんなこと。

「先週も言ったけど、自分の作品宣伝したり営業したり、そんなのは当たり前だろう?俺が教えなくたってできるはず。俺はディーラーでエージェントでもある。どんな画家のどんな絵が売れるか分かってる。海外から絵を持って来て日本で売るパターンの多い中、俺はその逆をやってきた。でも海外で売れる絵についてリサーチしたことはない。それは売れる絵が分かってるから。」

喋りながら、俺はこんな調子で3ヶ月もどうやってもたせるのか考えている。毎回同じことを言ってるような気がして仕方がない。どうでもいいけど。鉄司はいい給料をくれる。今日は俺がマネージメントをしている中心的な5人の画家について、絵をスライドで見せたり、海外でどう売れているか等を説明する。それから画家のプロフィールやらを話そうと思ったけど、ふと思いついて、生徒達に、この人達の絵がなぜ売れるのか聞いてみることにした。色だとか大きさだとか値段だとか経歴だとか、そういう当然な答えがあって、俺は、

「じゃあ、君達はこの人達の絵欲しいと思う?」

ひとりの女性が手を挙げて、その中の絵を指差して、

「綺麗な絵だと思います。欲しいけど、高いし、家にはこんな大きな壁がないし。」

「じゃあお金があって、大きな壁があったら買う?」

「買うかも知れないけど、必要だとは思わない。」

「そうだろう?欲しければ、多少高くて大きくても手に入れたいと思うだろう?だからそういう絵を描け。」

そこで時計を見たら、まだ30分もある。いくら好きな男のためでも、こんな仕事引き受けるんじゃなかったと、もう何百回もしてる同じ後悔をする。

「でも俺は人にうける絵を描け、って言ってるんじゃない。絵の技術やソフィスティケーションについては君達の絵の教師に聞いてくれ。」

これを始めた時は、俺の講義を聞くために金を払って来てくれる人達に、一生忘れないようないい授業をしたいと思ったけど。そんなことはもうどうでもよくなった。鉄司は俺の授業、評判いいって言ってたな。そういえば光軌も褒めていた。光軌の方をチラって見てみた。割と真面目な顔で、俺が次になにを言うのか、期待して待っているように見える。

「よく俺のマネージメントしてる画家に言うんだけど、絵を買いに来たつもりじゃない客をつかめ。絵なんて買ったこともない、買おうとしたこともない人の心を動かせって。」

ほんとはそんなこと言ったことないけどさ。そんなこと俺が言わなきゃなんないような画家は、俺は最初からやらないし。面倒くさいし。近所の暇な主婦かなって思っていた、中年の女性が真剣な顔で手を挙げる。

「じゃあ先生は、私達にどんな絵を描けって言いたいんですか?」

あれっ、俺そんなこともうなん回も言ってるつもりだったんだけど。思わず、一応適当にノートに書いておいた、自分で作った授業の内容を見てみる。適当だからそんなのを見てもよく分からない。

「俺、言わなかった?」

主婦かなんか分からない女性が、

「聞いてません。」

「何回も言ったと思ったけど。」

「言ってません。」

「そうか。」

時計を見ると20分ある。これで今日の授業は楽勝だな、って嬉しくなる。もったいぶったつもりじゃないけど、しばらく黙って、なにを言おうと思ってたのか考える。人に欲しいと思わせる絵?よく覚えてない。俺だって絵描きだからな。俺はなに考えて描いてるんだろう?あんまりなんにも考えてないな。描きたいものを描いてるだけ。空を飛ぶ天使。バロックの宗教画。美形で半裸でそそる男しか描かないから、ゲイの顧客が多い。

11

「人のことは気にするな。」

教室がシーンとなる。俺はもっとなにか言った方がいいな、と思って、

「自分を納得させろ。いつ死んでも思い残すことがない程、ひとつひとつの絵を完成させろ。」

そしたらまた教室がシーンとなって、30人分の目だから、60個もの目が俺のことをじっと見て、俺が次になにか言うか待っている。俺はもうどうでもいいやと思って、

「自分の中の真実を見付ける。それには相当の努力と訓練がいる。」

今のはちょっと抽象的だったかな、と思って、

「そのうち、なにをどう描きたいのか見えてくる。」

個人的には、俺はエロい男が描きたい。それだけ。

「そうすれば、絵が売れる。」

教室がザワザワする。ひとりが手を挙げる。

「それは極論じゃないんですか?」

俺に逆らうヤツがいるとは予測してなかったから、内心ビックリする。

「美術史を見れば、異端と呼ばれた画家が主流になっていくことが分かる。」

ほんとかな?自信ないな。そしたら同じヤツが、

「でもそういうの、ひとりよがりって言うんじゃないですか?」

そこまで突っ込んでくるとは思わなかったから、少しひるむ。こういう時は上手く話題をそらすに限る、と俺は考える。そして案を練る。

「新しい流派を創り出すのは、いつも自分ひとりだろう?」

思い付きにしては今のは悪くなかった。話題もそれてないし。

「だからそういう画家になれ。」

そしたらソイツは意外にも、

「分かりました。」

と言って黙る。

12

鉄司に呼ばれてオフィスに行った。ヤツは学院長の次に偉いから自分だけのオフィスを持っている。

「さっきのなかなかよかった。」

「聞いてたんですか?」

「評価のためじゃない。純粋な興味で。」

「なんの用ですか?忙しいんで。」

考えたら腹が立つから考えない。でも自然とコイツに浮気された事実が心に浮かんでくる。相手はただの金持ちの男で、この学校のパトロン。美術の学校に投資することで自尊心を満足させている。

「今夜、俺と付き合わないか?」

「冗談。なんのために?」

9時に家で待ってる。キーはあるだろう?」

「とっくにすてた。」

「とにかく来い。いいウォッカを仕入れたから。」

ヤツは威圧的な靴音を立てて俺に近付いて来て、俺の手を握る。手の感触が身体中を回る。俺はそれを振りほどいて、学校を出て、通りを歩いて、まだ夕方の早い時間で、辺りは若い人達の熱気で溢れている。俺はまだアイツの身体の支配下にあるのだろうか?あの手の感触を思い出してみる。いけないとは思ったが、慣れ親しんだ身体の記憶が蘇る。

13

道路を渡った向こう側。そこにお洒落なカフェバーがあって、生徒達がよく集まって、店の外で、木の陰になりそうな所で、男女がキスしてて、よく見たら男は光軌だった。女は光軌くらい背の高いミニスカートのよく似合う可愛い子。ここから見ても舌のちょっと入ってそうなセクシーなキス。絵になる。光軌が立ち止まっている俺に手を振りそうになって、俺はそれを無視して、歩き続ける。まだ鉄司のことで放心している。光軌と話す気にはなれない。特にあんなキスの後では。家に帰って仕事をして、でも鉄司のことが頭に浮かんで、たまらない気持ちになって、絵筆を取ってみる。人物を描くには混乱し過ぎてて、天使を描き始めた。天使はいつも描いているから自然に手が動く。その中に長髪がいて、光軌のことがふと頭に浮かぶ。天使56匹に羽を描いてやって、時計を見たら8時半だった。

14

俺じゃなくて、俺の身体が動いて、立ち上がって、着替えて、外に出た。俺はヤツのマンションのセキュリティカメラから顔を隠して立つ。すぐドアが開く。そのウォッカは本当に上等のフランス製で、酔いが回って、ヤツが座ってる俺の側に立って、俺の顔を上に向けさせて、湿ったキスをする。それがいつものベッドに行く合図。俺は後について歩く。いつもそんなことしないのに、ヤツは俺の服に手をかけて、それを脱がしていく。

「維織、お前を手放したのは間違いだった。」

あっちと切れてるとは思えない。パトロンで権力者。

「お前の身体は完璧だ。」

いつもはそんなことしないのに、俺の身体にオイルを塗って、身体の隅々まで愛撫する。特にケツや乳首を。その時俺は、多分コイツの男がこうするんだなって気が付く。最後に俺のペニスにオイルを垂らして、弄ばれて、それが大きく硬くなっていくのを見られて、俺はまた多分コイツはいつもアイツにそうされるんだなって思う。以前なら大抵、俺の身体を勝手に使って、勝手にイって、俺はひとり残される。ヤツは俺を座らせて、髪をつかんで、自分のペニスの先で俺の顔をなぞって、いきなり口に入れて、それを動かし始める。俺は相手の好きにさせて、自分からはなにもしないで、舌も動かさないで、ヤツの目を睨む。

「心配すんな。痛くはしない。」

痛くはないけど屈辱的で、多分それもヤられてて、だからいつも自分がパトロンにヤられてることを俺にしたいんだ。多分SなのにMやらされて。命令口調で、

「維織、俺の中に入れてくれ。」

そんなことも今までなかった。中に入れるとそこになにか塗ってあって、俺のペニスが熱くて特に中の方がもっと熱くて、それが気持ちよくて、俺は大きな声を出す。

「まだイくなよ。」

また命令する。中にいるとすぐイきそうになるから、俺は抜いて、ヤツは俺の汗ばんだ身体を抱いて、

俺の頭を押さえて、自分の方を向かせようとする。

「俺の目を見ろ。」

そう命令して、でも俺は命令される覚えはないから、また目をそらす。ヤツは舌で俺の口の中を舐め回して、俺のペニスを自分の手でしごけって命令されて、どっちにしろそうしたかったからそうして、そしたらヤツは俺のペニスの写真を撮り始めて、止めろって言ったけどダメで、俺は顔をできるだけカメラから隠して、そしたらヤツは俺にマスクを被せて、カメラを片手で持ちながら俺のケツに指を入れて、中で動かして、俺の好きなスポットを知ってるから俺はすぐイって、イったところも写真に撮られた。

15

家に帰ってひとりになった。なにをしてもなにを見ても、さっきのセックスのことを思い出す。仕方がないからベッドに横になって、自分でヤって、もう1回イって、その瞬間に電話がかかってきた。

「光軌?なんで俺の番号を知ってる?」

「先生のケータイ見たって言ったでしょう?」

「酔ってるのか?」

「いけませんか?」

「さっきの女は誰だ?」

「幼なじみ。アネット。」

「アネット?」

「ハーフの子。」

「幼なじみとあんなキス?」

「ソウルメイト。そういうの分かります?」

「分からない。」

「男女の愛より純真。」

「へー。」

「あの子とセックスはしませんよ。」

「そんなこと聞いてない。で、なんの用だ?」

「先生、今なんのモードですか?」

「さあ?」

「先生・・・会いたいです。」

俺はもう2回もイっちゃったからなにもできないよ、って言おうかと思ったけど止めた。

「酔ってるんだろう?」

「いいでしょう?」

しばらく黙っていたら、

「いいです。他に行きます。」

それで電話が切れた。俺は彼に電話をする。

「今どこだ?」

「分かりません。」

「なんで分からないんだ。」

「ずっと歩いてたから。」

「ここまで来れるか?タクシー代なら払ってやる。」

後ろに踏切の音がする。不吉な予感。

「光軌!」

今度は電車の通る轟音がする。

「光軌!」

「なんですか?」

「君、俺達は絵の話しが合うって言ってただろう?」

「はい。」

「それって、ソウルメイトだろ?」

「はい。」

「なにがあった?」

「話せば長いことなんで。」

「ひと言で言え。」

「ルームメイトとケンカして。」

「アネット?」

「あの子は実家だから。」

「そこ、どこか分からないなら、その辺の人に聞いてみろ。」

また踏切が鳴り出して、電車が通る。夜中なのに随分電車の通る場所だな、と思っていると、

「先生、こっからあっちに見える駅が品川だそうです。」

「だったらそんなに遠くないから。すぐ来い。」

俺は急いでシャワーを浴びて、良識のある大人らしいカッコに着替える。途端に電話がある。

「先生。」

「今どこだ?」

「タクシーの中です。ほんとにタクシー代払ってくれるんでしょうね?俺、金持ってませんよ。」

「分かった。着いたら電話しろ。」

16

俺は運転手に金を払う。タクシーから光軌が降りて来る。彼は大きなバックパックを背負っている。

「なんだその荷物は?」

「ルームメイトとケンカしたって言いませんでしたか?」

「なんでそんなに金がないんだ?」

「親が絵の学校には金は出さないって。」

「いい心掛けだ。」

「先生、親の見方するんですか?」

「絵は習うもんじゃないから。」

「じゃあなんで先生してるんですか?」

「頼まれて。しかし、酒を飲む金はあるんだな。」

「あ、これはルームメイトのを勝手に持って来た。」

光軌は半分くらい空いたテキーラのビンを取り出す。彼はそれをひと口飲むと、俺のベッドルームに向かって、ベッドに横になる。

「おいおい、君のベッドはそこじゃないよ。」

「いいじゃないですか?もうこないだ一緒に寝てるし。」

やっとのことで彼をゲストルームに寝かせる。彼のバックパックのポケットでケータイが鳴っている。どうしようかと思ったが、あっちもこっちのケータイ見てるんだから、と思って出てみた。

「光軌は?」

若い男の声。

「大丈夫。今寝かせた。」

「そうですか。よかった。」

「君がルームメイト?」

「そうですけど。」

「なんでケンカなんて?」

「アイツが、好きな人ができたって。」

「誰?」

「なんか学校の先生だって。」

ヤバいと思って、慌てて電話を切る。学校の先生?

17

俺の授業は金曜日の最後の時間。鉄司が車の中で俺を待っている。授業が終わる時間。俺は吸いつけられるように車に乗り、飲みに行って、ヤツの家に行って、お互いの身体をむさぼり合って、汚いセックスをする。ヤツは俺がイく時に必ず写真を撮る。

「そんな写真。なんにする?」

ヤツはパトロンの名前を出して、

「彼が見たがってるから。」

「えっ?」

「お前のイくところを。」

じゃあ俺達がこうやってるのも、彼は知ってるんだ。理解できない。

「なんでそんなこと?」

「他の男とヤってる男が好きだとか。」

「病気だな。」

「今度、動画を撮って欲しいそうだ。」

「断る。」

「金は払う。」

「他のヤツを捜せ。」

「お前は俺からは逃げられない。」

あのバカバカしい学校も、あとひと月で終わる。そうすれば鉄司と直接の接点はなくなる。逃げ切れる。そう思う。アイツ等の狂った遊びには付き合えない。行く所のない光軌はまだ家にいて、俺のスタジオで絵を描いている。毎週金曜日、授業が終わって、俺がどこかへ出掛けて、夜遅くに帰って来て、必ずシャワーを浴びる。そういうパターンに彼は気が付いているのだろうか?

18

次の金曜日。授業中に鉄司が俺の教室をのぞきに来た。俺の脳裏に暗い影が差す。授業が終わる。俺はできるだけゆっくり廊下を歩く。職員のたくさんいるオフィスの前を通りかかる。光軌がスタッフと議論している。

「なんでいっつも俺なんですか?」

「君、お金が欲しいって言ってただろう?」

「そうですけど。」

「君はねスタイルもいいし、適任なんだよ。」

俺が口を挟む。

「なんの話し?」

光軌が、

「ヌードモデル。デッサンの。」

スタッフは、

「光軌君はみんなに人気があって。」

俺は、

「いいじゃない。いつやるの?」

スタッフが、

「毎週月曜のデッサンの時間です。」

「いいな。俺も参加できる?」

「もちろんですけど。」

19

光軌がふて腐れた顔をしている。俺はいいことを思い付いて、光軌と一緒に裏門に向かう。鉄司の車が遠くに見える。中までは見えない。

「先生ね、いくら金くれてもあれは大変ですよ。みんなにジロジロ見られて。」

俺はワザと立ち止まって、光軌の長い髪に触れる。

「もっと短くても可愛いかもな。月曜日、俺ほんとに行くから。」

「えー、マジですか?」

光軌と俺は通りを一緒に歩く。後ろを振り向くと、鉄司の車がついて来る。そして俺のケータイが鳴る。

「早く車に乗れ。」

「イヤです。」

「今夜で最後にする。だから動画を撮らせてくれ。」

「イヤです!」

光軌が心配そうに俺の方を見る。

「彼が、今晩動画でお前が俺に入れて、最後に俺の背中の上に出すところを観たいそうだ。それに今度3人で高級ホテルの最上階に部屋をとって、俺がお前のアヌスにバイブレイターを仕込んで、お前は俺のモノをしゃぶって、彼はシャンパンを飲みながらそれを見物する。」

俺はなにも言わずに電話を切る。光軌が、

「先生。イヤだったらちゃんと断らないとダメですよ。」

「なんの話しだ?」

「毎週金曜日、必ず遅く帰って来て。いつも暗い顔で。長い間シャワーを浴びて。」

「君はいつも俺の考えてることが分かる。」

「でも先生は俺の考えてることがサッパリ分からない。俺達まだセックスしてないし。」

「そうだったな。」

「ほらまた。暗いですよ、先生。そうだ俺、今晩お好み焼き作ってあげる。すごく美味しいんだから。これから材料買いに行きましょう。」

また俺のケータイが鳴る。

「今晩、お好み焼き作ってくれるらしいんで。」

「生徒に手を出すなと言っただろう?」

「お好み焼き作ってもらうだけですから。」

そう言って電話を切って着信拒否をした。

20

いくつか仕事をキャンセルして、月曜日、ヌードデッサンに行った。立ちポーズで、クラスには20人程いて鉛筆を動かしている。俺が教室に入って行くと、光軌は露骨にビックリする。

「モデルは動かないように。」

教師に言われている。生徒に人気があるというのも分かる。ちょっと痩せ過ぎで骨が突き出た部分もあって、エゴン・シーレ風の退廃を感じる。その割に彼はとても健康的なオーラを発している。モノは思ったよりでかい。そういうことを見に来たのではない。俺は極真面目にデッサンをして、休憩時間になる。

「先生ね、俺にモデルやって欲しかったら、いつでも家でできるのに。」

「こういうとこで描いてみたかったから。」

「なんで?」

「君のことを客観的に観られる。」

「じゃあいつもは主観的に観てるってこと?」

「いつも客観的に観てる。」

「意味が分からない。」

「違う方向から観てみたかった。」

「それならなんとなく分かる。まだ分かんないけど。」

「君のことをもっと知りたかった。俺の知らない君を。」

「俺についてなにか分かった?」

「ちょっと。」

「なに?」

「存在を感じた。」

「ほんとに?」

俺は彼の頭を撫でる。彼は嬉しそうで、休憩が終わって、また立ちポーズで、身体の線があまりにも美しいから、なかなか座ったり、寝たりさせてもらえない。本物の人間をデッサンするなんて、最近ないから新鮮で、学生に戻ったような晴れやかな気持ちになった。

21

学校の講師も今日で終わり。なんとか乗り切った。思いがけず生徒達から花束をもらった。なにもしてやれなかった後悔があったから、それは嬉しくて涙が出そうになったけど、花の後ろに隠れてなんとかごまかした。俺はみんなに、なにを伝えられただろう?俺が適当に作った授業の計画書を見ても、やっぱり適当だからよく分からない。教室を出ると、そこに鉄司が立っていた。一瞬目が合って、挨拶程度で別れた。俺はコイツがいなくても生きていける、そういう自信があった。いつものように光軌と一緒に帰った。商店街を歩きながら、

「先生。もう俺の先生じゃないけど。これで俺達なんでもできますね。」

俺は、俺より背の高い彼の頭を叩く。

「先生。これから俺、なんて呼べばいいですか?」

「維織。」

「分かりました。少し練習しないと。」

「ほんとに家でもモデルやってくれるの?」

「そりゃ、やりますよ。家賃の代わりです。」

22

家に着いて、俺は待ち切れずに、

「じゃあ、やろう。」

「えっ、なにを?」

「モデル。」

「マジで、今?」

「うん。」

俺の絵はいつも写実で、バロック調で、半裸の若い男がいて、空を天使がたくさんバタバタ飛んでいる。俺は光軌を椅子に座らせて、身体に透けるような薄い布を絡ませる。

「身体をもっとリラックスさせて。マッタリした感じ。男を誘うような。」

俺はすっかり夢中になって鉛筆を走らせて、彼がモゾモゾ動き始めて、やっともう1時間近く経つんだなって気が付いた。

「あー、先生のモデルって大変。」

「そうか?」

「あ、先生じゃなかった。維織さん。」

「維織でいい。」

「ほんとに?」

「うん。」

「じゃあ、維織のモデルは大変。だって維織の周りだけ、時間が止まってる。」

「そうか?」

「俺のことは絵の中に存在する誰かだと思ってて、だから生きてる俺のことは眼中にない。」

「それが君の観察結果か?」

「そうでしょ?」

彼は俺が描いていた絵をのぞき込む。難しい顔をして考えてる。彼自身も絵描きだから。

「俺はこの絵の中にはちゃんと存在してますね。キャラクターもあるし。俺ほんとにこんなに男を誘う顔してましたか?」

「うん。」

「こんなに上手だとは知らなかった。」

俺はそれがなんとなく可笑しくて、クスっと笑う。

「なにが可笑しいんですか?あれっ、この歌、綺麗な声だな。ソプラノ?」

俺は描く時はずっとバロック音楽を流しっぱなしにしている。ボーカルがほとんどで、バッハとかヘンデルとか。教会の音楽。グローリアとかハレルヤとか。毎日聴いていると頭が変になって、天使が頭上を飛んでる気分になる。

「君、こんなのに興味あるの?」

「そりゃあ。俺、カラバッジョのこと勉強したし。バロックミュージックでしょう?」

「このソプラノはね、男性だよ。フィリップ・ジャルスキー。」

「えっ、マジで?」

「あの時代、女性は教会で歌うのが禁止されてて。だから。」

俺は少し音を上げてみる。彼の声は天使のよう。艶やかに透き通って。空気の中をクルクル舞っている。俺はネットで彼の動画を捜してあげる。光軌は感動して、

「メチャ男前!」

「トップスターだから。」

彼はフランス人で、まだ若くて、ゲイに人気で。彼みたいに女性のソプラノの音域で歌うのは、カウンターテナーって言われて、世界でも珍しい。

「この人はバロック時代、天使のひとりだった。今でも地上で歌っている。」

「維織、今アーティストモードだね。もう先生モードがないから、またなんか考えよう。」

「天使は性別がないから。だから彼はソプラノで歌える。」

彼の声を聴いているうちに恍惚めいた気持ちになる。目が泳ぐ。

「維織。変なの。アーティストモードとも違う。」

「今は、君にキスしたいモード。」

俺の空想の中で、俺はバロックの貴族で絵描きで、光軌は俺の召使でモデルで、俺は彼に近付いて、こんな風に彼の頬を優しく撫でながら彼にキスして、光軌はベッドの中で俺に最高に心のこもった愛をくれる。そしたら、俺達の周りに金や銀の粉がたくさんフワフワと舞い降りて、あんまり美しくて泣きたくなる。

Part2

23

いつも維織の帰りを待って、料理したりなんだリ。俺って妻みたい?妻っていい響き。でも待ってるとか、マジで夢中だとか、そんなこと知られたくない。初めて維織を見た時、アートビジネスのクラスを取ってよかったって思った。あんなイケメンだったら勉強にも熱が入る。どっち道、維織は俺の考えてることがさっぱり分からない。だけどそんなこと、ほんとかどうか分からない。重いと思われたくない。だから維織がいる時は、さり気なく絵を描いてる振りをする。でもそれはほんとに振りで、ずっと維織のことを気にしている。いない時も考えてるけど。とりあえずいない時は、せいぜい絵に集中しようと頑張る。グレーという色について。グレーは俺にとって透明な色で。だから紙の上に描くのはそもそも間違っている。しょうがないからまず、一面に白を塗る。そしたら多少透明さが出る、と思う。やってみないと分からない。しばらくしてインターフォンが鳴る。誰だろう?維織だったら勝手に入って来られるし。それにまだ帰って来るには早い時間。

「どちら様ですか?」

「滋通。」

「俺、ただの留守番なんで。」

「維織は今日来ること知ってるから。」

「でも。」

「じゃ、これから維織に電話させるようにするから。」

「分かりました。」

セキュリティーカメラを観た限りでは、相当のイケメン。バリっとスーツを着ている。俺のケータイが鳴る。維織から。

「その人、俺がマネージメントしてる画家だから、入れてやって。俺もすぐ帰るから。」

24

ドアを開けてあげると、その人が入って来て、いきなり、

「いい匂いがするな。」

さっきハヤシライス作ったから。その人は絵を何枚か抱えている。小さくも大きくもないサイズ。勝手にスタジオに入って、自分の絵を並べる。観たことのある作風。仏陀の絵。このスタジオにも何枚か置いてある。俺はあんまり好きじゃない。仏陀なんて部屋に飾るもんじゃない。仏教はキリスト教と違うんだから。

「俺、すごく腹減ってるんだよな。」

俺はどんな顔していいのか分からないから、どんな顔もしない。

「普通そこまで言ったら、どうぞ、って言うもんだぞ。」

偉そうだから返事はしない。

「君はなに?維織のアシスタントかなにか?」

「だたの留守番です。」

さっきそう言っちゃたから。それで通す。滋通が鍋に近付こうとするから、俺は鍋の前に立ちふさがって、

「これは維織のために作ったものだから。」

「ふーん。なるほどね。」

俺の顔をジロジロ見る。

3人分くらいあるだろ?」

そう言いながらもなぜか諦めて、スタジオに入って行く。俺は嫌味にあとからついて行く。ヤツは机の上を見て、俺の描いてた絵を手に取って、

「綺麗なグレーだな。俺にはこんな色出せないな。」

「まだ途中だから。」

「へえ、君の絵?」

滋通は俺の絵を窓の光に透かして観る。

「これ、どうやって描いたの?」

「どうやってもなにも、このチューブから直接出して。」

「へえ。それでこんな色が出るの?」

「はい。」

「他にないの?君の絵。」

俺はなんでそんなこと聞くんだろう、といぶかしく思いながらも、いくつか見せてやる。

「ふーん。チューブから直接ね。可能性は見える。」

「どういうことですか?」

「俺には君が大成した暁に描く絵が見える。」

「あ、そんなこと言って、俺のハヤシライスを狙ってるんでしょう?」

マジな調子でそう言って、言ったあとで、バカなこと言わなきゃよかったと思った。

「あれハヤシライスなの?」

「はい。」

「君はここで家事をやってるの?」

「強いて言えば、絵のモデルです。」

「俺もやってたことある。」

「そうなんですか?」

「もう、とうが立っちゃたから。維織、若い子しか使わないから。」

ソイツの魂胆は知らないけど、絵を褒めてもらったから、結局ハヤシライスを出してやった。ほんとはサラダも作ったんだけど、それは黙っていた。そんなこんなの内に、維織が帰って来た。

25

俺が維織にサラダを出すと、滋通が、

「あ、それ俺食ってない。」

俺は露骨にイヤそうな顔して、サラダを出してやる。

「維織、面白いな、この子。俺に嫉妬してる。」

この子呼ばわりされてムカつく。食べた後、みんなでスタジオに行って、滋通が持って来た絵を観る。

維織は一通り観て、

「これとこれはいいけど・・・」

5つの中から4つを選ぶ。滋通は、

「これが一番いけると思ったんだけどな。なんで?」

「色がマイナーだから、売るのに苦労しそう。」

「マイナーって?」

「濁った色。」

「日本風だと思ったんだけどな。」

「作意が見える。」

彼等はふたりでそんな感じで商談を続けて、俺は途中で自分の部屋に行った。嫉妬してる?そんなつもりじゃない。あの滋通という男になにか感じるだけ。昔、維織のモデルやってたなんて。PCで維織の絵を検索してみた。色々出てきたけど、どの絵が滋通なのか分からない。その中のモデルで一番たくさん出てる人がいて、なんだか丁度いいバロック調の顔をしてて、なんていうか、泣きそうな顔をしている。色んなウエブマガジンに維織のインタビューが載ってる。彼のマネージメントしてる画家の絵も載ってる。俺達が学校で観たヤツもある。仏陀の絵も出てきた。どうしてもこれは好きじゃない。

26

自分も晩ご飯を食べようと思ってキッチンに行く時、何気なくを装ってスタジオの中をのぞく。ふたりは座ってまだビジネスの話しをしてるみたいなんだけど、滋通の手が維織の太ももに乗っている。ますます怪しい。ああいうのって、身体のつながってる男同士しかやらない。それか過去つながってたか。俺はまた何気なくを装ってスタジオの中に入って行く。滋通の手が、あわてて維織の太ももから離れる。俺はもしかしたら、ただ画家がディーラーに甘えてる仕草かなって思ったりしたけど、そうじゃないことが分かる。スタジオの中に入って、なにかしき来た振りをしようかなって考えたけど、思い付かないから、バカみたいに回れ右してまた部屋の外に出た。色んなことを考えて頭がいっぱいになって、ほんとは見張りのために家にいたかったんだけど、もういいやって投げやりになって、ジャケットをつかんで表に出た。

27

全然当てはないんだけど、電車に乗って繁華街に出た。トレンディーな街。トレンディーなゲイバーがあって、俺は時々アネットと一緒に行った。周りの男達が俺達を見て、なにしに来たみたいな顔をするのが可笑しい。アネットは俺のソウルメイトだから、性別は関係ない。ひとりで来るのは初めて。ビールを頼んで、ひとりでカウンターに座った。アネットにラインしたら仕事中だった。ファッションモデルの仕事って意外と直前にならないと分からないらしい。無性に彼女と話しがしたい。そして彼女の綺麗な手を握ってそこにキスしたい。王女様と下僕みたいに。俺の隣に40代くらいの男が座る。大袈裟なタキシードを着込んでいる。チラって見た限りでは見てくれはいい。維織みたいな厚い胸をして。俺は無視してまたビールを頼むと、その男がバーテンダーに、

「今の俺のとこにつけてあげて。」

俺はさすがに彼の方を見て、お礼を言う。こういうことってあんまりないから、少しドキドキする。ソイツが、

「いきなりで悪いんだけど。」

って切り出して、俺はなにか言った方がいいような気がしたから、

「はい。」

「これからコンサートに行くんだけど、連れが行けなくなって。」

そういえばここからすぐの所に、大きなコンサートホールがある。

「君、一緒に行ってくれない?」

コンサートってなんの?って思ったけど、こんなタキシード着込んでいるとこ見ると、ロックじゃないよな、って考えて、ビール飲んでたのもあって、クスって笑ってしまう。

「なに?」

「あ、そんなカッコだから、ロックじゃないよな、って。」

正直に答える。彼も少し笑って、

「クラシック好き?」

「はい。」

「よかった。そんなような気はしたけど。」

「なんで分かるんですか?」

「雰囲気で。なんとなく。」

俺は初めて彼の目をちゃんと見てみる。どんな人なのか全然分からないけど、いい予感より悪い予感の方が大きい気がする。でも酔ってるからよく分からない。

「君はどんな曲が好きなの?」

俺はクラシックそこまで詳しくないけど、バロックだったら分かるなって思ったから、

「バロック。」

「珍しいな。君みたいに若い子が。」

「そうですか?」

「指長くて綺麗だけど、楽器やるの?」

彼はさり気なくカウンターの上に出てる俺の手に触れる。俺は恥ずかしいけど5cmくらい飛び上がって、それが恥ずかしかったのと、酔ってたのと、触られてムカついたので思わず、

「俺、全然商売人とかじゃないですよ。」

「ゴメン、ゴメン。」

って言いながら、俺に微笑んで、それが余裕の微笑みで、コイツ相当男を扱うの慣れてるな、って思う。彼はタキシードジャケットのポケットに入ってたチケットを見せながら、

「バロックじゃないけど近いでしょ?」

モーツアルトのピアノコンチェルト。ソリストの名前は書いてない。

「誰が弾くんですか?」

それは俺が聴いたことのない外国人。

「誰が弾くかによって行く行かないが決まるの?」

「まあ。」

「じゃあ、調べて。」

俺はケータイでその名前を調べてみる。女性。東ヨーロッパ出身。2年前のチャイコフスキーコンクールのファイナリスト。まだすごく若い。多分20代前半。

「すごく若いですね。」

「俺も全然知らないんだけど。どう?行ってくれる?」

俺はもったいぶったわけじゃないけど考えて、でもトラブルに巻き込まれたいような気分だったから、

「でも俺、こんなカッコで。」

「それはもう時間ないし、どうにもならないな。」

そう言って余裕で笑って。俺はジーンズで、おまけに穴の開いたデザインで、上はTシャツに薄手のブルゾン。背中にとんでもないタトゥーみたいな刺繍がしてある。一応トレンディーなんだけど、モーツアルトのコンチェルトには似合わないけど。

28

結局彼は俺の分まで全部払ってくれて、俺達は通りを歩き出す。それらしい服装をした人々が周りを歩いている。

「君、背が高いんだな。」

俺は突然シャイになって、彼の方を見ずに少しうつむく。あっちも余裕で俺の無口に付き合って、俺達は黙ったまま会場に入る。オーケストラはもう全員いて、会場は半分くらい席が埋まっている。俺達の席は前から56番目の中央。こういうのって一番高い席じゃないのかな?俺はさっき彼がチケットを見せてくれた時、彼が丁度値段の書いてある所を持って、俺に見せないようにしてたんだな、って気付く。ということは、この男は俺を変な意味で利用したいわけではないな、って少し安心する。もし下心があればワザと値段を見せると思う。分からない。あっちにはそんなつもりなくて、ただの偶然かも知れない。俺って考え過ぎるんだよな。チラって彼の方を見たら、

「ありがとう。一緒に来てくれて。ひとりじゃカッコつかないから。」

コンサートが始まる。ソリストはやっぱり若い。弾き始めて、彼女の手が緊張で震えているのが見える。ピアノの弾き方は一流なんだけど。きっとこんなホールでオーケストラとやるのに慣れてないんだな、って可哀相になる。余計なお世話だけど。

29

インターミッションになって、俺はなにを話していいのか分からなくて、結局黙って彼と一緒にバーに並んだ。

「なに飲む?」

「俺、ビールしか飲まなくて。」

そしたら彼はシャンパンをふたり分注文して、俺が細長いグラスを受け取って、しばらくボーっとしてたら、彼が自分のグラスを俺のにぶつけて乾杯してくれた。また席に座ったら妙に彼の存在が気になって、でも彼の方に目を落とすと、維織の太ももに置いてあった滋通の手を思い出した。酔ってるの?分からない。このままコンサートが終わって、もうこの人には一生会えないのかな?バカなことを考えてる。連れが来れなくなった、って言ってたじゃない。だから連れのいる人なんだ。色んなことを考えながら、モーツアルトには悪いけどあんまり集中できなくて。とうとう今夜の曲が全部終わって、俺達は少し群衆から遅れて、ゆっくり外に出た。さようならを言われるのが怖い。彼に興味があるのか?って自分に聞いてみても、よく分からない。胸板の厚い、タキシードを着こなした、年上の男。体型は維織に近い。やっぱりこの人は俺の好みなの?気持ちが焦る。きっとすぐに彼は俺にさようならを言って、そしてもう一生会えない。あっちが言う前になにか言わないと。

「あの。」

「うん?」

「もう少し一緒にいてもらっていいですか?」

彼はチラッと驚いた表情をして、それから微笑んで。ふたりでタクシーに乗って、知らない場所で降りた。

30

細長いビルの地下。小さな木のドアに「会員制」って書いてある。小さなバー。バーの中にドレスを着た人がいて、でも一見して男性だなって分かる。上手にメイクをしている。もともとイケメンだなって思う。

「木越さん。なかなかいらしてくれないから。」

静かにそれだけ言って。俺達はまたカウンターに座って。

「こんな素敵なお若い方がいらっしゃるんじゃ。」

どういう意味か分からない。木越さんって呼ばれた彼が、

「さっきナンパしたばっかりだから。」

って俺にウインクする。ほんとなんだけど、バーテンダーさんは本気にしていない。俺は、

「若いって、俺、2浪してるから、いい年ですよ。」

「大学でなに勉強なさってるの?」

2浪して美大全部落ちたから、今、美術の専門学校。」

「絵描きさん?」

「上手くいけば。」

その店は男性同士の客もいるけど、男女のカップルもいる。なんで会員制なんだろう?こんな所に来たことがないから。さっき、もう少し一緒にいてくれなんて、女の子みたいなこと言っちゃって、彼はどう思っているんだろう?俺のポケットのケータイが震えてる。維織からメッセージ。

「光軌。どこにいるの?」

「分かりません。」

「また?側に踏切はないの?」

「ないです。」

「何時帰って来るの?」

「分かりません。」

そう打ってケータイをポケットにしまった。木越さんは、

「家で待ってる人がいるんじゃないの?」

俺はなんて言っていいか分からないから、なにも言わない。自分こそ誰か家にいる癖にって思ったけど、言わなかった。手っ取り早く酔ってしまおうかと思ったけど、俺はそんなに酒に強くない。焦燥感で身体がモゾモゾ動いて、さっきのピアニストのことを思い出す。手が震えて。自分の手を見る。両手を裏表。震えてはいない。木越さんが俺の片方の手を捕まえる。俺は彼の身体全体を意識する。彼は俺の手を離さない。バーテンダーさんが来て、

「今日ナンパしたにしてはお熱いわね。」

木越さんは、

「いいだろう?手を握るくらい。」

俺はそれを聞いて、可愛い女の子みたいに下を向く。だからやっぱりそれは止めて、彼の顔を見る。なんだか知らないけど、社会的に成功した人なんだな、って思う。維織もこんな風に自信に満ちた顔をしている。俺はどれだけ維織と一緒に住んでる?なのに一度もこんな風に愛おしそうに俺の手なんて握ってくれない。いつも他の人の方を向いてる。俺はたまらなくなって彼の胸に顔を埋める。糊のきいたタキシードシャツ。どこだか知らないけど、懐かしいような海とオレンジ色のランドスケープが見える。後ろからバーテンダーさんの、

「おやおや。」

という声が聞える。なんだか知らないけど、俺ってなんで今夜はこう女の子なんだろう?木越さんは、しがみついてる俺の腕を外して、俺は恥ずかしくて彼の顔を見られなくて、そしたら彼は俺の長い髪を邪魔そうにどけて、キスしてくれる。それが終わった時、俺は無意識に自分の唇を触って、そしてまた今のも女の子の仕草だよな、って思ってクスクス笑ってしまう。不思議そうに微笑む彼に、

「俺っていつもはこうじゃないのに。」

「じゃあいつもはどうなの?」

「こんな女の子みたいじゃない。」

俺はまた笑ってしまって、彼はボウタイを取って、ボタンもいくつか外して、それを見てセクシーだな、って思って、

「今夜はずっと一緒にいてください。」

「君は誰か他のヤツのこと考えてるんだろ?」

「そんなことはないです。」

「俺は他の男のこと考えてるヤツを抱くような趣味はない。」

俺は少しすねた顔をしてみる。彼は、

「どんな男?」

「なにもしてくれない男。」

「今みたいに胸に飛び込めばいいじゃない。さっきの悪くなかった。」

俺はマジで笑って、

「分かりました。やってみます。」

31

家に帰ると、まだスタジオの明かりがついている。俺は開いているドアをノックして、部屋の中に入る。維織がキャンバスに向かっている。バロックの空に天使がバタバタ飛んでる。山のように。

「俺のモデルがどっかに行ってしまったから、天使ばっかり増えていく。」

俺は着ていた服を脱いで、椅子に座って、ポーズをとる。

「いいの?こんな夜中に。」

俺は黙ってうなずく。維織の周りではいつものように時間が止まっている。俺も絵の中の人物になりきって動きを止める。男を誘うような顔。維織の好きな。1時間くらい経って、やっと彼が時計を見て、俺は絵の中から抜け出て。でも、胸に飛び込めって言われても困るな。きっかけがない。維織は色を塗り始める。夜中に俺達なにやってるんだろう?流れてるバロック音楽を聴きながら、今夜のモーツアルトのことを思い出す。あの人にまた会えるのだろうか?連絡先は教えてくれた。

32

学校の帰り、俺はふと思いついてあることをした。家に帰って、俺を見て、維織が言葉を失う。俺は、

「短くても可愛いかも、っていつか言ってたでしょう?」

「そこまで短くしろとは言ってない。」

「でも可愛いでしょう?」

「可愛いけど、絵が途中なのに。」

「写真撮ってたでしょう?」

「写真でよければモデルはいらない。」

もっと喜んでくれると思ってた。高校を出てから伸ばし始めた俺の髪。もう大分経つから気分転換に丁度いいんだけど。維織が俺に近付いて、俺の肩についている髪を払ってくれる。俺はチャンスだなって思うけど、どうしても上手くいかない。気後れする。胸に飛び込めなんて。そんなことしてどうなるの?維織は俺のこと、絵の中の人物だとしか思ってない。彼は俺の顔を正面から見詰めて、

「まあ、短いのもいいかも。早く次のを描き始めよう。」

彼は嬉しそうに口笛を吹く。なんだか知らないけど、いつもかかってるバロックの曲。こないだはどうしてできたんだろう?酔った勢い?そうかもしれない。知らない人だったから?分からない。

33

俺はスタジオを出て、リビングの一角にある維織のバーに行って、どれにしようか考えて、ウォッカをストレートであおる。こないだ教えてもらったアドレスにメッセージを送る。木越さん。

「こないだ胸に飛び込めって言われたけど、上手くいきません。」

「あの時はできたじゃない?」

「なんでできたのか分かりません。」

「今度ヴィヴァルディあるけど、一緒に行かない?」

「いいんですか?」

「再来週の金曜日。」

「いつも一緒に行ってる方は?」

「彼はモダンが好きだから。」

「モダンって?」

「プロコフィエフとかショスタコーヴィチとか。」

「俺はどっちも知らない。」

「いいよ、知らなくて。」

「今、ウォッカを盗み飲みしてる。」

「頑張って。」

頑張ってと言われても。身体は熱くなってきたけど、頭は余計冴えてくる。でも飲んでるうちにそれが逆になって、身体は冷えてきたけど、眠くなって、俺は自分の部屋で寝てしまう。全然飲んだ意味がない。

34

起きたらもう夜で、しょうがないから起きて、バスルームに入って鏡を見たら、誰だか知らない人が映ってて、ちょっとドキってしたら、それは髪の短くなった俺だった。それを写真に撮って、アネットに送った。すぐビックリしたのとか、怒ったのとか色んなスタンプが並んで来た。今さら言っても遅いよ。背中に髪の毛が入っててチクチクして、俺はそのままシャワーを浴びる。浴び終わったらアネットから電話がかかってくる。

Why didn’t you tell me!

「英語使うなって言ってんだろ?」

「なんで言わなかったのよ!」

「なんでもかんでもお前に言う必要ないだろ?」

「どうして切ったの?」

「なんにでも理由があるとは限らない。」

「私、心配してんの。」

「心配することはない。」

「ほんとに?」

「うん。」

「これからそっちに行く。」

「来なくていい。」

「住所を教えて。」

35

何度か迷ったっていう電話がきて、しょうがないから近くのコンビニまで迎えに行った。アネットは俺の顔を見て、

Oh, I can’t believe it! (え、信じらんない!)」

「英語使うなって言ってんだろ。」

いつも彼女と会ってる間中、俺が繰り返す言葉。彼女らしい派手な超ミニドレス。盗撮してくれと言わんばかりの。ついでにコンビニで食べるものを買うことにする。そこにいる客がみんな彼女の方を見る。売れっ子のファッションモデル。肌は陶器で、顔はお人形。アネットはなんだか知らないけど、ウーロン茶とかコーヒーゼリーとかそんなのばかり選んでる。

「お前、ちゃんと食ってんのか?」

「食ってる、食ってる。」

ふたりで通りを歩いて、風にあおられるドレスに俺はハラハラする。

「お前、またマネージャーに太るなとか言われてんだろ?」

彼女は黙っている。

「お前、そんな服しか持ってないのか?」

「だって短い方が可愛いんだもん。」

コイツになに言っても、コイツはコイツの思うようにするから。家に着いて、ふたりでさっき買って来た物を食べる。俺はコンビニ弁当とポテトサラダ。アネットに少し分けてやる。彼女はイヤそうにしながら食べる。きっと俺に逆らうと面倒だと思ってる。彼女に俺の絵を見せようと思ってスタジオに行くと、いないと思ってた維織がいる。彼はアネットを見ると立ち上がって、彼女に近付いて、色んな角度から彼女の顔をジロジロ見て、

「君はとてもバロックな顔をしている。」

意味不明の言葉。

「ちょっとふたりでそこに座ってくれないか?」

維織は俺達ふたりにポーズをとらせる。彼女は正面で、俺は斜め横。

I don’t want to do it.(こんなのやりたくない。)」

Then, can I just take your picture?(じゃあ、写真だけ撮らせて。)」

OK.(分かった。)」

イヤそうなアネットに俺が、

「家賃の代わりだから。」

それから維織に、

「コイツ我儘で。」

「君のソウルメイト。」

36

PCに映し出された写真をみんなで観る。バックに渋い柄のタペストリー。確かに俺達って絵になる。アネットは、

「ふーん。」

って言ったきりで、スタジオを歩き回って、そこらにある絵を観始める。俺がモデルになってる絵を見付ける。ヤツは無礼にもクスクス笑う。

You are so cute.(可愛い。)」

「英語使うなって言ってんだろ。」

そしたら維織が、

Do you think you can come here again for me?(君、また俺のためにここに来てくれないかな?)」

I have to ask my agent.(私のエージェントに聞いてみないと。)」

That’s OK. I’ll do it.(大丈夫。それは俺がやるから。)」

俺はアネットの頭を小突いて、

「家賃の代わりだって言ってんだろ。」

「だってー。」

37

ふたりでリビングに行って俺がソファに横になると、すぐにアネットが俺の腰に腕を回して、身体を重ねてくる。

「お前なんで彼にそう失礼なんだ?」

「だって。」

「だってなに?」

「光軌があんなに好きなのに知らん顔してる男なんて。」

「えっ!俺そんなこと言ってないじゃん。」

「分かるもん。」

維織がリビングに入って来て、俺達を見てなにもしないで出て行って、そしてまた入って来て、今度は用を考えてきたみたいで、自分のバーからウォッカのボトルを出してくる。

「あれっ?なんか減ってる。」

「あ、少しいただきました。」

「そう。いいけど別に。」

アネットが俺達が子供の頃からやってたみたいに、俺の口にキスをする。大きな音を立てて。

38

しばらくして俺達は家を出て、俺は彼女が近くに置いて来た車まで送ってやる。家に帰って来ると維織が来て、

「ほんとに幼なじみとあんなキスするんだな。」

「外人だから。」

「だからって。」

少し酔ってる?まだ飲み始めたばかりなのに?俺も冷蔵庫から俺のビールを出してくる。

「でも彼女、いい顔してる。素晴らしい。」

「そんなに?」

「バロックな顔をしている。」

「それどういう意味?」

「よくあるだろう?宗教画や肖像画に。」

「いつも見てる顔だから。」

維織は色々それについて話しを初めて、俺はさっきアネットが言ってたことを考える。俺がいつあんなこと言った?言ったことなんてない。でも分かっちゃうんだな。維織はアーティストモードから、ちょっとずつ変わっていく。前にもあったことだけど。維織にはアートディーラーモードと、アーティストモードがあって、それぞれ全然人格が違う。新しいこれはなにモード?バロックモード。なんでもいいけど。変な世界に入って行く彼を俺は眺める。

39

「彼女は昔、とても位の高い貴族で、誰からも尊敬されてた。だけど本当の彼女はまだ内心幼くて、とても我儘で、召使達をいつもハラハラさせていた。」

「それって、維織の妄想?」

「ほんとの話し。」

「へえ。」

「お目付け役の天使がいて、いつも彼女を諫めていた。」

「それって俺のこと?」

「そう。背中に大きな翼をつけて。」

「さっきの写真。俺は天使なの?」

「そう。彼女は時々戯れに天使にキスをする。」

いくつ目かのビールを開けて、なんとなく俺もその妄想に耳を傾ける。

「彼女はもう子供じゃないのに、子供の頃したみたいに、暗がりに隠れて。天使は慌てて彼女のことを捜して名を呼ぶ。なんていう名前だっけ?」

「アネット。アイツは太りたくないからって全然食べないで。俺はいつも心配で。」

「そうだろう?我儘で言うことを聞かない。」

「でもアイツもいつも俺の心配をしてる。」

「なに?なにを?」

「俺があんなに好きなのに、知らん顔をしてる男がいるって。」

「そうなの?」

「そう。だから俺が急に髪を切ったもんだから、心配して来てくれた。」

「そういえば、なんで急に髪を切ったの?」

「さあ。知らん顔してる男が前に、切ったら可愛いって言ってたの思い出して。」

「ふーん。」

「そうだ。今度ヴィヴァルディに誘われてて。」

「なにそれ?」

「コンサート。こないだはモーツアルトのコンチェルトだった。1番いい席で。その人はタキシードを着てた。」

「誰?」

「バーで会った人。」

「知らない人?」

「そう。もう知らない人じゃないけど。俺、なに着てけばいいんだろう?ちょっと聞いてみる。」

40

維織はなぜかソファの俺の隣に移動して来て、俺のケータイをのぞき込む。

「ええと、なんて書こうかな?」

彼は俺の身体に触れるくらい近付いてくる。

「お誘いありがとうございます。でも俺はなに着て行けばいいんでしょう?」

そしたらすぐ返事が来て、

「きちんとしたカッコだったらいいよ。」

「スーツにネクタイですか?」

「もしあればね。」

「分かりました。楽しみにしています。」

そしたら維織が、

「なに者?」

「知りません。」

「なんで聞かなかったの?」

「その方がロマンティックだと思って。」

「そういう関係なの?」

「ちょっとだけ。」

維織はしばらく口の中で、俺のちょっとだけの意味を考えてて、

「ヴィヴァルディはいつなの?」

「えっと、再来週の金曜日。」

「スーツ着てくの?」

「カジュアルなのしか持ってないけど。」

「どんなの?」

「え、見たいの?なんで?」

「なんとなく。ビジュアルがあった方が想像しやすい。」

「なんで想像したいの?」

「君が他の男といるところを。」

「だから、なんで?」

「なんでだろう?」

「俺に聞いても分かりませんよ。」

「君が髪を切って、急に別人みたいになっちゃったから。」

「まだ答えになってませんよ。」

埒が明かないから、俺は自分の部屋からスーツとシャツとネクタイまで持って来て見せてあげる。

「いいネクタイじゃない?」

「成人式の時買ってもらったんです。」

「スーツは?」

「それはアネットの知り合いに安く譲ってもらった。いざという時の場合に備えて。」

「じゃあ、そのヴィヴァルディが、いざという時なんだ。」

「ビジュアルが知りたいんだったら、その人は木越さんと言って、年は40ちょい位で、体型はなんとなく維織に似てます。」

「ふーん。君はそんなに年上が好きなの?」

「好きになったら関係ないです。」

「そうだよな。俺もいつもずっと年上が好きだった。」

意外な方向に話しが向いていく。彼がひとりで喋ってるので、俺は黙って聞いている。

「ずっと年上が好きで、でもあのモデルに会って、それで変わった。彼に出会って肖像画を描くようになって。前から天使は描いてたんだけど。生きているモデルがいると全然違う。さっきの子に写真じゃなくてちゃんとモデルになってもらうには、大分お金を払わないといけないんだろうか?」

俺は返事をした方がいいのかどうか分からなくて黙っていたら、

「どうやってギャラを決めたらいいのかな?」

本気なんだな、って少し驚く。

「え、知りませんけど、プライベートでやることはエージェント通さなくってもいいと思いますよ。」

「じゃあ彼女に聞いてみて。」

「聞いときます。」

「聞いて、今。」

「もう遅いから。」

「さっきの人は起きてたじゃない。」

バロックモードの維織は聞き分けがない。俺はアネットにラインしてみる。維織はまた俺のケータイをのぞき込む。

「維織がお前のこと気に入って、ギャラ払うって。」

意外にもすぐ返事が来る。

「やだ。」

「お前のエージェンシー通さなくっていいんだよな。プライベートだから。それに絵のモデルだし。」

「でもやだ。」

「なんで?」

「さっき言ったでしょう?」

「なんだっけ?」

「光軌があんなに好きなのに知らん顔して。」

プンプン怒ってる変なウサギのスタンプ。維織が、

「なに怒ってんの?」

「だから、俺があんなに好きなのに知らん顔してるからって。」

維織は酔った頭でブツブツ言いながら考えてる。俺はバロックモードの彼はなんか幼くて理解が遅いな、って思う。どんな顔して考えてるんだろうと思って顔を見ると、あっちも俺の方を見ていて、

「誰のこと言ってるの?」

「言わないと分かりませんか?」

俺はアネットにまたラインして、

「維織がお前が誰のこと言ってるのか分かんないって。」

「知らない。自分で言って。」

そしてまたあの変なウサギがベッドに寝ているスタンプ。

「アネット寝ちゃった。」

41

維織は立ち上がってキッチンの方に行って、冷蔵庫を開けて閉める音がする。多分意味もなくそうやってる。そしてスタジオに入って行く。俺はビールを持ってあとについて行く。彼はデスクの上のPCでさっきの写真を観ている。そして、口の中でブツブツ言い始める。これもバロックモードの彼の特徴だなって思う。維織は、

「バロックのお姫様。もう寝ちゃったのか。」

って言いながらスクリーンのアネットの頭に触って、

「お休み。お姫様。」

「維織、ほんとにアネットのこと気に入ったんですね。」

「うん。」

て言って、俺の胸に顔を埋める。俺は、あれっ、これって俺のはずじゃ?って焦る。まあ、俺の方が背が高いから。俺は天使になったつもりで彼の身体を優しく抱いてあげる。

「アネットのことは俺がなんとかしてあげるから。」

「ほんと?」

「アイツは単純だから。」

「どうするの?」

「アイツの気に入るようにすればいいんだから。」

「さっきなんであのウサギが怒ってたの?」

ウサギ?ああ、あれか。変なスタンプ。アネットがよく使ってる。

「だから俺の好きな人が俺の方を向いてくれれば。」

彼がボーっとしてるんで、俺は彼の身体を離れて、スタジオを見回して、

「そうだ。さっき言ってたモデル、この1番多く使ってる人ですよね。誰なんですか?」

「暁登。」

「その人、どこでなにしてるんですか?」

「分からない。」

「ほんとに分かんないんですか?こんなに絵がたくさんあるのに。」

「彼には絵の中で会えるから。ローマまで一緒に旅行して、そこで別れて、それっきり。」

「そんなことあるんですね。」

「俺はその後ヴェネツィアに行って、彼は北欧に行くって言ってた。彼は天使だから。どこにでも好きな所へ行ける。」

42

彼はPCを消して、スタジオの電気を消して、俺の手を引いて自分のベッドルームに行く。あの大きな窓が天井から床まである。あのベッドに一緒に寝た日、維織はまだ俺の学校の先生だった。維織はサッサと服を脱いでベッドに入って、俺に向かって、

「ここに一緒にいて。」

俺も服を脱いでゴソゴソベッドに潜り込んで、そしたら彼は俺の身体を大きなテディベアみたいに抱いて、スヤスヤ寝てしまう。俺は考える。俺ってどのモードの維織が好きなんだろう?そりゃ、アートディーラーモードの時はカッコいいよな。世界の美術商やコレクターに日本の画家を売り込んでる。アーティストモードの彼には時がない。時が止まっている。だからモデルをやるのは大変。俺のことは絵の中の人物で、本物の人間だと思ってない。じゃあ今のバロックモードの彼は?俺はまだ慣れてないから、なにを考えてるのかよく分からない。空想と妄想の中で生きてる。俺は彼の静かな寝息をしばらく聞いて、彼の手が緩んだ時にベッドを抜け出して、さっき脱いだ服を持って部屋を出た。明日の朝、起きたらまたアートディーラーモードになって、俺がなんで彼のベッドにいるのか不思議に思うだろう。

Part

43

なんだか疲れた。頭が痛いし。こんなこと前にもあったな。今回は前より長いな。5日間意識不明か。オーバードースなんて、いい大人の男がやることじゃないよな。なんの薬飲んだんだろう?全然覚えてない。まあ、なくなったのを見れば分かるんだけど。いらなくなった薬をため込むのは悪い癖だ。不思議と毎日メールチェックはしている。どうせヨーロッパもアメリカもイースターの連休だけど。ひとり暮らしで死んでも誰にも気付かれない。身体中が痛くて鏡の前で見たら、あちこちに酷いアザがある。顔にまで。トイレにでも行きたくて動き回ってよろけてぶつけたんだろう。前回の時は理由があった。男に酷く振られて。鉄司。俺はみっともなくアイツの後を追って。今回のは、なんでか分からない。PCの履歴によると、俺はメールチェックの他に、自殺の仕方やらそういうサイトを見てることになってる。でも全然覚えてない。ということは、死にたいという気持ちはあったらしい。鉄司にすてられたあと、俺はセックスしないと眠れないという、謎の不眠症になって、色んな男とヤッてたけど、面倒くさくなって、病院に行って薬をもらって、割と早くよくなって、それでその時余ったヤツを全部飲んでる。キッチンのゴミ箱を見たら痛み止めやら、酔い止めやらの箱がすててあって、なんのために酔い止めなんて買ってあったのか全然分からない。テーブルの上に紙が置いてあって、薄っすらと記憶がよみがえる。光軌の字。なんだって?「ひとりで考えたいことがあるので、しばらく実家に帰ります。学校やバイトには行ってるので心配しないでください。」彼は俺の生徒だった。家に誰かいるのに慣れちゃって、ひとりになるのが怖かった?そうなのかな?あんな細くて若いの、全然好みじゃないし。鉄司とは、浮気されて、別れたあとでもヤっていた。俺なんかした?なんにもしてないよな?俺の人生から5日間がなくなっている。

44

少しは反省しようと思って、家の中を歩き回った。どういう状況でこんなことが起こったのか?あの時、俺は光軌の置き手紙を見付けて、読んで、それから絵を描いていた。モデルがいなくてしょうがないから、空をバタバタ飛んでる天使を描いていた。天使ばっかり増えても困るから、と思って筆を置いて。その辺から記憶がない。俺はスタジオに入って、その時描いていた絵をぼんやり見詰めた。ここに天使になった光軌と、彼の友達の女の子が入る予定だった。あの子、なんていう名前だった?アネット。完璧にバロックの顔をした。ふと思いついて、光軌に電話してみたが、通じない。やっぱり俺、なんかしたんだな。でもなにしたんだろう?この絵のストーリーはこうだった。アネットはお転婆な貴族のお姫様で、天使の光軌は彼女のお目付け役で。それで?それから?俺は生きてるモデルがいないとダメな画家で、表情のゆらぎみたいなものが欲しい。輪郭だけでも描こうかな、と思ってPCでこないだ撮った写真を観た。光軌とアネット。彼は斜め横の顔でアネットの方を見てて、彼女は正面を向いている。このふたりは、またこの絵のためにポーズをとってくれるのだろうか?バロックの顔。暁登もバロックの顔をしていた。俺達はローマで別れて、彼はフィンランドにたくさんいる、おとぎ話に出て来る天使達に会いに行った。

45

今、何時だろう?と思って時計を見た。10時だった。夜の10時。5日間意識が朦朧としていた時も、時々時計を見て、なぜかいつも10時だった。朝の10時だったり、夜の10時だったり。俺はまた寝室に戻って、テーブルの上の時計を見た。やっぱり10時だった。確かめたら時計は止まったりしてなくて、ちゃんと動いている。そういえば、その日が何曜日なのか知りたくて、何度も寝室のデスクの上のPCを見に行ったのを思い出した。それはいつも、何度見に行っても、金曜日だった。あれだけ薬を飲んでも、意識がなかっただけで、身体はなんともない。アザだらけだけど。意味もなくキッチンに行った。お腹が空いてるわけじゃないけど、冷蔵庫を開けてみた。そしたら、そこにも光軌の置き手紙があって、「フリーザーに食べる物入れときました。ちゃんと食べてください」。ちゃんと食べてください、か。フリーザーを開けると、なるほど色々入っている。そういえば光軌はいなくなる前、ここで盛大に色々広げて料理をしていた。彼が家に来る前、俺のフリーザーには氷とアイスパッドしか入ってなかった。食べながら、またちゃんと反省しようと思って考え始めた。そもそも光軌はなんでここに住むことになったんだろう?電話してきて、後ろに踏切の音がした。ルームメイトとケンカして。大きなバックパックを持って。ルームメイトっていうか、アレは元カレだよな。それで元カレとケンカして。元カレから電話があって、なんか言ってたな。光軌に好きな人ができて、それは学校の先生だって。すっかり忘れてた。俺にしては果敢に反省しようというこの気持ち。自分で偉いと思う。そもそも彼は学校の先生が好きで、ここに来た。俺はそれを忘れようと努力して、本当に忘れてしまった。あの頃はまだ鉄司とヤってたし。でも鉄司と別れられたのは光軌のお陰だ。健康的な若さ。髪を切ったら可愛いって言ったのに、ほんとに切ってもあんまり可愛いって言ってあげなかった。俺ってなに?責任取りたくないっていう、よくいる無責任な男?そうかな?そうだよな。光軌と話したいって思って考えたけど、実家も知らないし、バイト先も知らない。でも学校なら知ってる。でも会ってどうする?

46

朝起きて、とりあえずシャワーを浴びて、なるべく真面目な服を捜して、鏡を見たら頬に大きな赤いアザがある。こんな顔じゃあ、なんか聞かれても本当のことを言うしかないな。そう決心したら少し気が楽になった。俺が数カ月講師をやったファンシーなアートスクール。授業中で、俺は1階にあるカフェに入る。そこは通りに面していて、外部の人間でも入ることができる。でも休み時間になっても、俺は彼がどこにいるのか分からない。どうしようかなって考えてると、遠くの席でスタッフと話しをしている鉄司が目に入る。相手は女性で教師っぽい黒いスーツを着ている。鉄司か。あんなヤツがいることをすっかり忘れていた。俺はヤツから顔が見える所にいて、今更席を変わるのもバカバカしいからそのまま座っていたら、あっちが気が付いて、俺のテーブルにやって来た。

「なにしてる?こんなとこで。」

「自由だろ?ここにいるのは。」

「用がなけりゃ来ないだろ?」

鉄司がテーブルの上にあった俺の手に触ろうとして、俺はよける。

「お前のことをまだ思い出す。」

「俺は忘れた。」

キッパリ目を見て言ってやった。

「それじゃあ、仕事中だから。」

って、残念そうに帰って行った。正直、鉄司のことは何年経とうが、やっぱり俺の身体が記憶している。でも気持ちは?あの若くて細い若者。生徒達が何人かカフェの方へ来始める。そろそろ授業が終わるところかなって分かるんだけど。一生懸命考えたら、今日は月曜日だった。入口の「関係者以外立入禁止」の札を横目で見て、俺はこっそりデッサンのクラスをのぞきに行く。やっぱり。そこにはふて腐れた顔をしてヌードデッサンのモデルをしている光軌がいる。細くて骨が突き出た、退廃的な雰囲気の若い身体。さすがに教室には入れない。それに彼はポーズをとらされてるから、俺のいる廊下の方は見えない。デッサンしている生徒のひとりが、俺を見て、

「先生!」

と素っ頓狂な声を出す。部屋中の人が俺の方を見る。光軌も振り向く。教師は、

「モデルは動かないように。」

って厳かに。俺はまたカフェに戻って授業が終わるまで待つ。鉄司達はまだそこにいる。俺はまた同じ場所にテーブルに腰掛ける。今度はヤツ等に背を向けて。学校側の入口を向いて。

47

コーヒーを飲みながら授業が終わるまでそこにいることにする。俺の側をさっきの黒いスーツの女性が通り過ぎて、学校の中へ入って行く。俺はイヤな予感がする。俺の後ろから声がして誰かが肩に手を乗せる。

「言ってもいいだろう?なんの用で来たのか。」

「用がないと来ちゃいけないのか?」

「同じ会話を続けるのはよそう。」

この男はすぐに会話を止めたがる。いつもそうだった。頭のいい男は時間を無駄にしないとか言ってた。偉そうに。この学校の学院長はお飾りで、実権はこの男が握っている。なにをしていたのかすぐ忘れる。色んなことが頭の中を飛ぶ。あのオーバードースがいけなかったのかな?これ以上頭がおかしくなったらどうしよう?コイツが会話を閉ざしても、俺はそれには慣れてるから、それ以上なにも言わないで黙っている。

「その顔はどうした?」

「転んでぶつけた。」

それは本当だ。

「変な男と付き合ってるんじゃないだろうな。」

「よけいなお世話だ。」

「今夜家に来い。」

「断る。」

「じゃあ明日。」

「それも断る。」

「あの時一緒にいた生徒と付き合ってるのか?」

「関係ないだろ?」

とうとうヤツは俺の向かいに座る。俺はもし光軌が授業を終えて、それでもし俺に会いたくて捜してくれたとして、どこに来るだろう?って考える。鉄司の目の前で「関係者以外立入禁止」の所へ入るわけにいかない。ふたりで捜してればなんとか会えるかな?でも、もしふたり共お互い違う場所を捜してたら、グルグル回ってるだけで俺達は一生会えない。

48

もし俺が光軌だったらどうするか?俺はその視点で考え始めようと思う。まだ学校終わってないし、外は捜さないよな。立入禁止だから外だと思うかな?カフェにいると思うかな?まだ午前中で、でもランチタイムはまだで、休憩時間は15分しかない。その間に彼とちゃんとした話しができるだろうか?でも一体なに話すの?授業が終わるのが10時。また10時か。あと15分もある。向かいの男がなんだかんだ言ってうるさい。俺はケータイをいじる。なにかを検索しよう。突然、どこからか「ナイチンゲール」という言葉が浮かぶ。小鳥のナイチンゲール。どんな声で鳴くんだろう?って疑問に思う。聞いてみると、意外と地味な声をしている。見てくれも割と地味だし。そんなもんなんだな。ついでにカナリアの世界チャンピョンの声を聞いてみる。さすがにうるさいくらい歌いまくる。自分から歌いたくてしょうがないみたいな歌い方。機械仕掛けの小鳥みたいだ。今度の絵にはなにかしら鳥を入れようと思うんだけど、あの時代にはどんな鳥が流行っていたんだろう?「バロックの鳥」で検索したけど、なんかあんまりパッとした鳥がいない。オウムとかそういうのはいる。そうだ、あの頃あんまり天使ばっかりバタバタ飛んでいて、画家達は小鳥を描いている場合ではなかった。そこまで考えたところで、生徒達がガヤガヤとカフェに入って来た。入れ替わりに鉄司が席を立つ。生徒の中に光軌もいて、彼は俺の側に来て、俺は一瞬固まって、でもすぐ氷解して、他の生徒達がしてるようにふたりでレジに並ぶ。

「なにがいいの?」

「じゃあコーヒーお願いします。」

ここは自分でカップに入れてレジで払うシステム。俺はカップにコーヒーを注いでやる。

「あ、どうもすいません。」

「いいえ。」

俺は金を払って、ふたりで席につく。

「どうしたんですか?」

「いつ帰って来るの?」

「分かりません。」

「ひとりで考えたいって、もう考えたの?」

「まだこれから。」

「あれからもう大分経ってるよ。」

俺の中から5日間が消えてるから、ほんとはそんなに経ってるような気はしない。

「帰ってもいいんですか?」

「そりゃあそうだよ。」

「じゃあ、ちゃんと考えます。」

「そうして。」

ふたりで座って、なんとなくしばらく黙ってしまって、それで俺が、

「なにを考えたいの?」

当然な質問。

「あ、人の気持ちについて。」

「誰の?」

「それは考えてからじゃないと。」

「じゃあ考えて。」

「その顔どうしたんですか?」

「そんなに目立つ?」

「はい。」

「転んでぶつけた。」

「大分酷いですよ。」

「食べる物入れといてくれて、どうもありがとう。」

「食べてるんですか?」

「ちょっと。」

「毎日食べないと。一日三食。」

「はい。でも5日分の記憶がないから。」

そんなことを言うつもりじゃなかったんだけど。なんでだろう?同情を引きたかった?

「どういうことですか?」

「睡眠薬を飲んで、5日間寝てた。よく覚えてないけど。」

彼は今まで伏せていた目を上げて、俺の目を見て、

「学校終わったらすぐ帰りますから、ちゃんと家にいてください。」

授業が始まって、彼は他の生徒と一緒に教室に戻って行った。

49

俺は家に真っ直ぐ帰って、仕事も絵もなにも手につかなくて、でも頭は、なんだか知らないけどなにかの考えでいっぱいで、キッチンに行ってまた意味もなく冷蔵庫を開けた。光軌の書いたメモがそのままそこにある。フリーザーを開けてみる。食べる気はしないのは分かってるけど、少しだけ食べる。描けないのは分かってるけど、スタジオに入る。PCでまた光軌とアネットの写真を観る。俺の絵はここで止まっている。天使だけバタバタして。カナリアの鳴き声を聴いてみる。色んな動画の中から一番長いのを選ぶ。それは4時間にわたる動画で、そのカナリアが先生で、他のカナリアを教えるためのビデオらしい。カナリアって先生から教わるんだな。確かに先生だけあって声に幅がある。低音から高音まで。今この瞬間、この先生の声を聴いて勉強している生徒は、世界に何匹くらいいるのだろうか?そういうことを考えて、先生の小鳥と大勢の生徒の小鳥達がみんなで合唱してるところを想像して、ボーっと聴いているうちに1時間以上経ってて、ちょっとビックリして、そしたらもっと他のカナリアはどうなんだろうと思って、色んな動画を観始めて、また1時間が経って、俺はその中で高音部が得意な鳥をひとつ選んで、それが気に入ったからそれをずっと観ていたらまた1時間経って、そしたらナイチンゲールのビデオを見付けて、それによるとそれは朝の2時に録音されたものらしい。ほんとに夜鳴くんだな。なんでワザワザ夜鳴くんだろう?調べてみる。ナイチンゲールはメスを呼ぶために鳴くんだけど、夜の方が雑音がなくていいんだって。なんだそれだけのことか。もっと霊的な意味があるのかと思った。夜の精霊達のために、彼等を楽しませるために、夜歌っているのかと思ってた。そんなことをしているとまた1時間経ってしまう。夜の絵を描きたいな。そしてナイチンゲールに歌わせる。空にはいつもみたいに天使が飛んでいる。ふと、暁登のことを思い出す。今どこにいるんだろう?本気で捜そうと思えば見付かるんじゃないかな?一緒にローマに行く約束をして、そしたら別れ話が始まって、でもローマには行って、彼は北欧に行くって言い出して、俺は止められなくて、それっきり。でも見付けてどうするの?俺は若いモデルしか使わないし。若い時の暁登は本当にバロックの絵画にいそうな、バロックの顔をしていた。今にも泣きそうな、セクシーな顔。手を差し伸べて、泣かないように慰めてあげたくなる顔。暁登をモデルにして、俺はたくさんの絵を描いた。そんなことを思いながらPCに向かう。バロック時代、色んな種類の、声が美しい小鳥の歌を楽譜にした音楽家がいた。そしてそれをバロックの楽器、リコーダーで演奏していた。すごいな。そしたら昔、カナリアに歌を教えるためにナイチンゲールが使われた、という文献を見付けて、カナリアの先生にも先生がいたんだな、すごいなって感心して、そしたらやっと光軌が帰って来た。

50

いきなりフリーザーを開けて、

「ほんとだ。全然減ってないね。」

アザのある俺の顔をジロジロ見て、

「病院には行ったの?」

「いや。」

「そのアザはその時にできたの?」

「身体中が痛い。」

彼はサッサと俺の服をまくって、パンツ下ろされて、ケツまで見られて、

「あ、ここにも、ここにもでかいアザ。」

「ほんとだ。こんなとこにも。俺も知らなかった。」

「こういうの前にもあったの?」

「ああ。あの時は2日間病院にいた。」

「ひとりでこんな所に5日も倒れてて、死んだらどうすんの?」

「死にはしないのは分かってた。」

と思う。無意識のうちには。このくらい飲んでも死なないなっていう気持ちがあった。

「こんなことして。理由はあるの?」

「人のせいにはしたくないけど。」

「なに?」

「ひとりになるのが怖かった。」

でもよく分からない。覚えてないし。

「それが理由なの?」

「本当は覚えてない。」

彼はしばらくキッチンの片付けものやらをしてくれて、俺は座ってそれを見ながら、思い出そうとする。このテーブルにまだ置いてある、この手紙を読んで、ひとりになりたくないと思った。それは確かなような気がする。俺の絵の中から抜け出して。暁登みたいに北欧の天使に会いに。そしてもう二度と会えない。仕事が終わって、彼も俺の向かいに座る。自分で書いた手紙を手で弄びながら、

「もし、いなくなったのが俺じゃなくて、他の人でも同じことをしたの?」

質問の意味が分からなくて、俺はしばらく考える。もし他の人がいなくなったのだとしたら?鉄司が去って行った時は同じことをした。暁登の時は俺はもっと理解していた。俺の絵の中から抜け出して、飛びさって行った。それには納得していた。光軌の時もそれと同じ。そのはずだったんだけど。俺がいつまでも考えてるんで、

「一緒に病院に行こう。」

「行ってどうすんの?」

「こういうことがあったんです。もう2度目ですって。」

なんで彼に5日間意識不明だったなんて告白したのか?今ではそれを後悔する。帰って来て欲しかったから?

「病院には行きたくない。」

「だったらちゃんと考えて。」

ちゃんと考えるけど、覚えてないから。あの時俺は絵を描いていた。

「君の手紙を読んで、俺は天使の絵を描いていて、まるで天使達と一緒に空を飛んでいるような気分になって、すごくハイな気持ちになって。」

「お酒でも飲んでたの?」

「それはない。」

「それでどうなったの?」

「それから先は覚えてない。」

「現実逃避?」

「分からない。」

「俺がいなくなって、それが原因だったら、俺は嬉しいけど。」

今言われたことを考える。小鳥の囀りが俺の邪魔をする。カナリアとナイチンゲール。何時間も聴いていたから、残響となってまだ頭の中に響いている。彼が俺に近付いて俺の顔に触って、

「こんなことして痕になったらどうすんの?」

「痛い!」

「痛くしたから。」

「どうして?」

「人の質問に答えないから。バロックモードだから仕方ないけど。」

「なにそれ?」

「維織には3つのモードがあって、アートディーラーモードと、アーティストモードと、バロックモード。」

「最初の2つは分かるような気がするけど、バロックモードってなに?」

「今みたいに人の言うことをちゃんと聞いてない時。空想に沈んで。」

さっきから、カナリアとナイチンゲールのことを考えてるのがバレてる。

「維織、なに考えてんの?」

「その昔、人はナイチンゲールを使ってカナリアに歌を教えた。」

「そのことと俺の質問と、どういう関係があるの?」

「今朝、学校にいた時からそのことを考えてる。」

「学校に来てくれた時は嬉しかった。」

「君に帰って来てもらいたかったから。」

「じゃあ、もう1回質問するからちゃんと聞いて。」

「分かった。」

「まだ小鳥のこと考えてるの?」

「ちょっと。」

「じゃあ、さっさと放して飛ばしてあげて。」

俺はやってみようと努力する。頭の中の残響はどうやって消すのでしょうか?人に聞いている暇はない。

「もう飛んで行った?」

「もう少し待って。」

目をつぶるとよけい声が響き渡る。目を開けて光軌の顔を見る。俺の天使の、お姫様のお目付け役の。

「バロックモードの維織はいつも俺のこと、絵の中の人物だと思ってる。」

なんでバレたんだろう?彼はいつも俺の考えていることが分かる。なのに俺はいつまでたっても、彼の考えてることがサッパリ分からない。

「光軌のことは現実として考える。でも小鳥の声はまだ聴こえてる。」

「そのくらいで勘弁してあげる。」

「ありがとう。」

彼はいきなり俺に抱き付いて、俺の胸に顔を埋める。ビックリしたけど、しっかり抱いてあげて、短い髪を撫でてあげて、

「なんで急に?」

って、ちょっと笑っちゃって、

「このくらいしないと小鳥に負けそうだから。」

俺は天使の彼が飛んで行かないようにしっかり捕まえる。でも彼のことは現実の人間として考えるんだったな、って思い出して、それじゃあ、彼が走って逃げていかないようにしっかり捕まえようと思う。彼は俺の胸に耳を当てて、

「確かに小鳥の鳴き声がしますね。」

俺は笑って、

「外のスズメじゃないの?」

「もっと高級そうな鳴き声。」

ベッドの中でも、俺の好きな高音部の得意なカナリアの声がする。それはレモン色で、オスだから男のソプラノ。カウンターテナー。バロック時代の。この身体は前に見たことがある。細くて退廃的な若い男の。デスクの上に置いた、俺のケータイが鳴る。俺の胸の中にいる光軌が、

「いいの?」

「うん。」

俺はケータイを無視して、この若者のためなら、人生を無駄にしてもいいかな、って思う。

51

「アネットと連絡取れましたよ。なんて言うんですか?」

「じゃあ、いつモデルやってくれるのか聞いてみて。」

光軌はケータイを抱えて文字を打つ。

「なんか、維織がちゃんと俺と付き合ってる証拠が欲しいそうです。」

「どういう証拠?」

「ええと、維織に光軌のこと好きです、って宣言して欲しいそうです。そうじゃないとやらないもん、って言ってます。」

「どうすればいいの?」

「じゃあこっち来て、自分で打って。」

「分かった。でもどうして俺が打ったって分かんの?」

「それもそうですよね。」

光軌は俺とラブラブなキスをして、それを写真に撮って、彼女に送る。すぐ返事が来て、

OK, when would you like?(いいよ、いつにする?)」

今度は俺がケータイを抱える。

Anytime you like. (いつでも好きな時に。)」

52

結局、病院には行って、軽いウツ症状だって言われて、でも薬は出せないって言われて。当然だよな。目の前にあったらまたオーバードースするかもしれない。気持ちが安定しないので、しばらく仕事は休むことにした。絵は描きたい。光軌とは上手くいってる。カナリアの声はまだ聴いてる。ネットの動画で、123時間くらい。聴いてて落ち着くわけでも癒されるわけでもなく、聴かずにはいられない焦燥感。絵を描く時も聴いている。光軌はアーティストだから理解してくれる。アネットはそうじゃないから全然理解してくれない。

I can’t stand these stupid birds!(このバカみたいな鳥、信じらんない!)」

「アネット、英語使うなって言ってんだろ?維織はこれがないと描けないんだから。」

俺はほんとにこれがないとマジで絵が描けない。俺の脳の部分部分を結合させるためにどうしても必要。このカナリアの声だけが俺の存在を認めてくれて、俺を正気に保ってくれる。

This canary is the world champion.(この鳥は世界チャンピョンだよ。)」

Who cares?(だからなに?)」

53

俺のバロックのお姫様とお目付け役の天使。ふたり共いい表情。カナリアの世界チャンピョンの声。カナリアの声のトーンが俺の脳のどこかに働きかける。そうすると、その俺の脳のどこかが真直ぐに立っていられるような気がして。それで正気が保てる。上手く説明はできない。モデルがふたりいるから、いつもより大きなキャンバスにした。だから人物が終わってから、また新しく天使を描き込む。俺のお姫様は文句が多い。

I’m tired.(疲れた。)」

「ゴメン。もう少し。」

Hurry up!(早くして!)」

「アネット!」

光軌が叫ぶ。俺は観念して、

「分かった、ちょっと休憩にしよう。」

アネットは真っ直ぐ俺のPCに行って、俺のカナリアチャンピョンの動画を消して、

「あー、やっと静かになった!」

そして彼女は、光軌の部屋からなにか持って来て、俺の頭に乗せる。ヘッドフォン。

「ダメだ。頭が自由に動かせないと絵が描けない。」

アネットはふて腐れる。光軌が、

「ふたり共、子供みたいに駄々をこねて。」

アネットは光軌を捕まえて、前にアートスクールの近くで見たような、舌が入ったキスを始める。光軌はソウルメイトとはそういうキスするんだって言ってた。お姫様を俺の絵に戻すのは難しくて、でも光軌によると、俺達がちゃんとお互いを向き合っている間は、彼女はお姫様をやってくれるそうだ。

54

俺のソプラノ歌手のカナリア。ベッドの時も歌ってくれる。光軌の身体は意外となんていうか、質量が高くて、細いけどずっしりした存在感がある。彼がいつも俺にキスしてくれる側で、そして抱いてくれる側で、俺は考えて、俺っていつもこうだったかな?鉄司との時はそうだった。彼が俺を抱いてくれた。暁登の時は?俺達ほとんど年も一緒だったし。よく覚えてないけど。暁登を描いていた時の、もっと若い時の俺は、筆を止めて考えるということがあまりなかった。最近は時々筆が止まる。モデルがいる時は、対象がある時は、止まらない。筆が止まる時、俺はなぜ止まるのかということに興味はなくて、また筆が動き出した時に、なぜ動き出したかについて考える。昼間は、抑うつ気分でも仕事はできて、海外のアートギャラリーにこっちの画家のインフォメーションを送って、あっちの欲しい絵を聞いて、俺のマネージメントしてる画家に会って。そういうことはできる。夜、スタジオに行って、もうなにも描けないなって自嘲的な気分になって、そうすると抑うつ気分独特の現実の見え方がして、現実と非現実の間のスリットに落ちて、そして描けるようになる。カナリアの声がするともっと楽にそれができる。きっとカナリアはそのスリットに住んでいて、俺にその世界からインフォメーションを投げてくれる。これ以上、うまく説明はできない。

55

週末、寝ていて何度も起きてしまって、それは絵のインスピレーションが勝手にやって来て、俺に描かざるをえない状況を押し付けてくるから。何度も光軌を起こしてしまう。彼は壁際に寝るのが嫌いで、だからいつも俺が壁際に寝ていて、だから彼を起こしてしまう。夜中に俺のスタジオにカナリアの声が響く。今度の絵にはバロックの空に天使と一緒にカナリアを描いた。地上にいて歌っているカナリアも描いた。機械仕掛けの小鳥みたいに首をあっちこっちに向けている鳥をたくさん。最近は上手くカナリアの声を頭の中で残響にすることを覚えて、アネットがいる時は彼女の嫌いなカナリアの動画をかけなくても、残響で大丈夫なようになった。我儘なお姫様。どうやって残響にするかというと、難しい装置はいらなくて、彼女が来る数時間前からしっかりカナリアの声を聴いて、それを脳に覚えさせる。それだけのこと。俺はたった1匹の自分が気に入ったカナリアの、30分の動画で、高音部が上手なその1匹しか聴かないから、それは難しくなくて、もう彼の歌のパターンも分かってるし。カナリアの声を聴かないと絵が描けない画家。この不可解な現象はいつまで続くんだろう?やっぱり光軌を起こしてしまった。スタジオに来ると夜中だろうとモデルにされる危険性があるので、彼は俺がここにいる時はあまり入って来ない。でも今夜は俺の絵をのぞき込んで、

「大分できてきたね。」

「ああ。」

「平和な感じ。」

「そうかな?それは言われたことない。」

「新しいスタイル?」

56

彼は自分で上だけ脱いで、絵の中に入ってくれる。俺はちょっと笑って、

「なんにも言ってないのに。」

「だって、天使役まだできてないでしょ?」

描き始めたら思い出した。やっぱり俺は暁登にも抱かれる方だった。暁登を描いていて、まだ休憩の時間じゃないのに、俺の所に来て俺のことを座ってる椅子ごと抱いて、俺は手にたくさん絵の具がついてて、だから彼が俺の服を脱がして、俺はそうなったらほんとは絵の具のことなんてどうでもよかったんだけど、されるままなのが気持ちよかったからそのままで、彼は俺を冷たいスタジオの床に寝かせて、足を上げさせていきなり俺の中に入ってきて。

「維織、なんか他の男のこと考えてる。」

光軌にはなんでも分かってしまう。

「ゴメンね。」

でもそれ以上突っ込んでこない。スタジオに俺のカナリアの声が響く。なぜか光軌はカナリアの声を気にしない。アーティストだから理解してくれる。多分。

「君は鳥の声、気にならないんだね。」

「なにを言っているのか理解しようとしてる。」

「カナリアが?」

「そう。なにか言ってる。」

「どんなこと?」

「楽しいこととか、嬉しいこととか。」

「いいな。」

「そうでしょ?」

「彼はもっと色んなことを言ってるのかと思った。」

「どんな?」

「現実と非現実の間にはスリットがあって、彼はその中から真実を投げてくれる。」

「そのカナリアはこの絵のどこにいるの?」

「この一番上の。天使達に混じって飛んでる。俺のソプラノ。」

俺のカウンターテナー。フィリップ・ジャルスキー。バロックの。

「これ?」

「そう。彼のカナリアは絶対嘘を言わないから。」

「綺麗だね。」

「そう。俺達絵描きは人々に美を伝える。」

彼は俺の描きかけの絵を一通り見て、そしたら俺の所に来て、キスしてくれる。また暁登のことを思い出す。あの後、結局俺は手についた絵の具のことなんてどうでもよくなって、彼に抱き付いて。光軌は椅子に座ってる俺の膝に頭を乗せて、

「また他の男のこと考えてた。」

「ゴメン。」

「この絵、いつものと違う。きっと話題になる。」

「そうかな?」

暁登とは長かったからどうしても思い出す。いけない。また思い出してしまった。

57

「俺はどうして1日中、このカナリアの声を聴いているんだろう?」

「聴きたいんだったら気にしなくていいんじゃない?アネットがいる時だけ止めれば。」

「なにか意味があるんだろうか?」

「まだウツ症状があるんじゃない?心配ならまた病院に行く?」

1匹の同じカナリアの声を1日中聴く。30分足らずの動画を何度も何度も再生して。俺はその異常性にやっと気付く。動画を消してみる。そうすると頭の中の残響が、動画の音よりもっと大きく聴こえる。依存症?中毒症状?でもこのカナリアを飼って、歌を教えて、いつも聴いている人がいるわけだから、俺だけがそんなに異常とも思えない。

「なんか他の物も聴いてみたら?」

光軌は俺のためにバッハのカンタータの動画を探してくれる。バロックの教会音楽。ボーイソプラノ。これだったらカナリアの声と似たような効果があるかもしれない。以前、俺はいつもこういう曲を聴きながら絵を描いていた。でも数分聴いて、やっぱりカナリアじゃないとダメだって気付く。俺はどうしたらいいのか分からない。光軌は、

「明日にしよう。もう寝た方がいいでしょ?」

58

順序として、壁際の俺が先にベッドに入り、彼も入って俺のことを背中から抱いてくれる。残響が頭に響いて眠れない。

「維織の身体からカナリアの声が聴こえる。」

「ほんと?」

「うん。」

「ゴメンね、うるさくて眠れないでしょ?」

「そのうち静かになるでしょう?」

「多分ね。」

「早く静かにして寝なさいって言ってあげて。」

「カナリアに?」

「そう。」

「分かった。やってみる。」

俺はそれを試しにやってみるけど、

「あんまり効果ないみたい。」

「鳴くのはまた明日にしなさいって。」

「カナリアはいつ寝るんだろう?」

「太陽が沈む時。」

「じゃあナイチンゲールは?」

「太陽が登る時。」

俺のこのカナリアに対する執着は、あの学校で鉄司に会った時から始まっている。なにかそれに意味があるのだろうか?鉄司のことなんてもうどうでもいいはずなのに。

「維織また他の男のこと考えてる。」

「なんで分かるの?」

「腰が動く。」

「ほんとに?」

「うん。」

「じゃあもう1回やってみるから。」

誰か男のことを考えよう。誰にしようかな?俺が光軌くらいの年の頃、今の俺くらい年上の男とヤっていて、ソイツは重症の足フェチで、最後はいつも俺の足に擦り付けて、そして足の上でイってた。

「すごいエロいこと考えてたでしょう?」

「なんで分かるの?」

「腰だけじゃなくて足も動いてた。」

「動かしてないよ。」

「俺は感じた。」

「これじゃあ浮気もできないな。でもさっきからのはみんな過去の男のことだから。」

「過去の男でも、俺と一緒にベッドにいる時はあんまり考えない方がいいでしょ?」

「そうだけど。じゃあ光軌のこと考えるとどうなんの?」

「じゃあ試しに考えてみて。」

「うん。」

光軌のことを考えると、必ずヌードデッサンのあの教室のことが浮かんでくる。背が高くて細くてスタイルのいい。光軌は鉄司みたいに変態じゃないから、特別にエロイことした記憶はないな。いけない、また他の男のことを考えてしまった。俺の腰、動いたかな?いつも思うんだけど、俺、滋通とだけはヤったことないんだよな。あの仏陀ばっかり描いてる変な男。タイミングの問題?とっくにヤっててもおかしくないんだけど。俺はなにを待っているんだろう?What am I waiting for? (俺はなにを待っているんだろう?)英語で考えてたら、光軌にバレないかな?Shigemiti always wants me, touches me, licks my face and kisses me,(滋通はいつも俺が欲しくて、触りたくて、顔を舐めて、そしてキスして。)but we have never slept together. (でも一度も一緒に寝たことないんだよな。)

「今の考えるの長かったですね。」

「そうかな?」

「暁登さんのこと?」

「そうじゃない。」

「こないだ会いましたよ。」

「えっ?」

「ここに来て、インターフォンで見てあんまり違ってるから。」

「どういう風に?」

「男らしくガッチリして、ヒゲを生やして。」

「それでどうしたの?」

「維織の絵の中にいる、バロックの泣きそうな顔と全然違ってたから入れてあげなかった。」

「いつの話し?」

「つい昨日。」

維織はベッドを飛び出して窓の外を見る。暗いし10階だからなにも見えない。

「どうして俺に言わなかった?アイツどこに行ったんだろう?」

「維織がいつも他の男のことを考えてるから。」

嫉妬?俺は暁登のことをもう愛してはいない。

「俺は暁登のことはもう愛してはいない。でも忘れてないし、心配もしてる。」

「じゃあ、もしそれが本当だったら言いますけど。」

「本当だ。」

「暁登さん、鉄司さんのとこにいるって。」

「鉄司の?」

鉄司と暁登との接点を考える。思い出せない。

59

「維織、もう夜中だよ!」

「どうしても行かないと。」

俺は服を着て、タクシーを呼んで乗り込む。光軌も慌ててついて来る。鉄司の家のカギはまだ持っている。未練があったわけではない。勝手に家に入って、リビングのドアを開けると、鉄司ともう1人の男。暁登だった。光軌が言ったように、男らしくてヒゲを生やした。ふたりはシャンペングラスを持っていて、そこに3人目の男が入って来る。白っぽい品のいいスーツを着ているが、人目で堅気でないと分かる男。その男が、

「あとふたつグラスがいるな。」

それをさえぎるように俺が、

「どういうことだ?」

暁登が巨大スクリーンのテレビをつける。局部が露わになった暁登。今のじゃなくて、俺が彼を描いていた頃の、まだ若い、俺の天使。

「俺は、維織が鉄司に合う前からパトロンと寝てたよ。」

聞き覚えのある甘いよがり声が画面から流れてくる。暁登の綺麗な白いお尻をかき分けて、巨大なペニスが入って来る。ソイツのケツを見てるとそれが鉄司のモノだって分かる。もうひとり男がいて、ソイツは知らないヤツで、俺の可愛い暁登の口の中でペニスを動かしている。光軌が、

「維織、もう帰ろう!」

「いや、俺は暁登のことがどうしても忘れられなかった。でもこれで忘れられる。」

俺と光軌はグラスを受け取って、俺は画面を真っ直ぐ見詰めて、光軌は目をそむけている。

「俺はあの後、北欧なんかに行かなかった。パトロンと一緒にパリで遊んでた。美術館を回って。もうすぐ俺の個展を開いてくれる。」

暁登はパトロンに微笑みかける。彼は有名なギャラリーの名前を言った。俺なんかにはまだ手の届かない大きなギャラリー。俺達はふたりでよく画家になる夢を語り合った。鉄司が暁登のケツの1番盛上がった所でイって、もうひとりの男が暁登の髪を乱暴に引っ張って、顔を上に向かせて、彼の口の周りに自分のモノをかけて、暁登はそれを美味しいキャンディでも舐めるように舌で味わって、その瞬間に、俺と光軌はそこを出た。

60

帰りは歩いた。歩くには遠かったが、外の風で頭を冷やしたかった。

「暁登さんのこと愛してないなんて嘘でしょう?」

「アイツのことはもう忘れた。」

「嘘でしょう?」

光軌はだんだん足が遅くなって、とうとう見失いそうになる。俺はコンクリートの道端に座り込んで彼を待って、ふたりでそこに座って、

「アイツはああいう男なんだ。嘘のつける。さっきので分かっただろう?俺は暁登が鉄司と知り合いだってことも知らなかった。」

「暁登さん、絵を描いているの知らなかった。」

「アイツの絵はパトロンなんていなくたって成功するはずなのに。」

「そうなの?」

光軌が立ち上がって歩き出したので、俺もそうして、ふたりでしばらく黙って歩いた。暁登は俺にとって特別な存在だった。絵のモデルとしてもそうだったし、恋人としてもそうだった。光軌が、

「忘れた方がいいですよ。あんな人。絵はどうするんですか?」

「絵は残しておく。」

「そうですよね。絵に罪はないですもんね。」

Part4

61

「俺、ヴィヴァルディって、もっとずっとずっと新しいのかと思ってた。」

「なんで?」

「だって、音が新しいもん。サティとかドビュッシーとかそのくらいの。」

「全然ちがうじゃない。」

「そうだけど。」

「君がバロック好きだって言うから誘ったんじゃない。」

木越さんは楽しそうに笑う。

「そうだけど。」

今インターミッションで、俺はパンフレット読んでて、それで気が付いた。今更だけど、ヴィヴァルディってバロックの音楽家だったんだ。俺はそんなにクラシックは詳しくない。俺達はまたモーツァルトの時みたいにシャンパンで乾杯をする。

「ヴァイオリンってあんなすごい音も出るんだって、ビックリした。」

「よかった。楽しんでくれて。」

コンサートが終わっても、この間の時より夏に近付いたから、まだ外が明るい。今日は木越さんは、このタキシードよりも少し略式の礼服を着ていて、多分、俺に合わせてる。俺のはカジュアルなコットンで、頑張ってアイロンをかけたけど、上手くいったとは思えない。今夜はこないだの会員制の怪しいバーじゃなくて、もっと開放的なレストランに行った。そこでも彼は知られているらしく、なん人ものスタッフに名前を呼ばれて、その度になんだか歓談している。最後にこのレストランのオーナーらしい人が挨拶に来て、

「こんな可愛い子がいるから、家になかなか来てくれないんですね。」

って、こないだの綺麗に女装したバーテンダーと同じ様なことを言う。俺はちょっとシャイを装ってその人に微笑む。

62

オーナーさんがいなくなってから俺は、

「俺って可愛いですか?」

少し甘えて聞く。俺はこの人の前だといつも女の子みたいに振る舞ってしまう。

「大分可愛いよ。こないだの人とはどうなったの?」

「どうなったもこうなったも。」

「なに?」

「俺の胸に顔を埋めてきました。」

「へえ、それはすごいことになったな。」

「そうでしょう?ビックリした。」

「やったじゃない。」

「そうでもないんです。彼はバロック調の肖像画を描いてて、空に天使がバタバタしてた頃の。俺がモデルで、それは大抵夜描いてて、でもその夜あったことは、次の朝にはみんな忘れてしまうんです。」

「ここに呼んだらどうかな?嫉妬させてみる作戦。」

「いいんですか?」

「いいよ。面白そうじゃない?」

俺はケータイで伊織にシャンパンで乾杯している絵を送る。すぐに返事が来て、ちょっとビックリしたみたいな顔の絵が来る。俺はテキストを打つ。

「維織、ちょっと出て来れませんか?お世話になってる木越さんを紹介したいんで。」

63

維織はかなり素早く着替えて、かなり素早くタクシーに乗り込んで来たくらいの素早さで現れた。しかもスーツを着て、こないだ買ったばかりの新しいネクタイまでつけている。席について維織は布ナプキンの縁で、額の汗を拭く。え、汗かいてんの?大して暑くもないのに?

「どうもいつも、家の光軌がお世話になって。」

家の光軌、って?俺って、家の光軌だったの?

「私達はシャンパンで乾杯してたところだけど、君もそれでいいかな?」

木越さんが維織を、「君」呼ばわりするのって俺にとって気持ちがいい。

「ええ。乾杯って、なんのお祝いなんですか?」

維織はバカみたいに素朴な調子で疑問を投げかける。木越さんは、

「私達が2度目に会ったお祝い。」

と意味深に言って、俺の手を握る。俺はマジでドキってする。維織は3cmくらい飛び上がって、

「今日はヴィヴァルディでしたよね?」

木越さんはまだ俺の手を離さないで、俺もまだちょっと驚いてて、

「俺、ヴィヴァルディって19世紀の作曲家だと思ってた。」

「あまり家で聴かないから。」

維織があまり意味のない発言をする。すると木越さんにやっぱり、

「なんで聴かないんですか?」

って質問されて、

「バロックにしては新しい気がして。」

維織もやっぱり俺と同じ感覚してるんだな、って不思議に思う。

「ヴィヴァルディってバッハよりも昔の人ですよ。家ではいつもなにを聴いてらっしゃるんですか?」

「バッハかヘンデルですけど、最近はカナリアを。」

「カナリア?」

俺が説明する。

「維織はここんとこカナリアの声を聴いてないと、絵が描けないんです。」

「どうして?」

また俺が説明する。

「どうしてかは分からないらしいんですけど。」

今度は木越さんが維織に質問する。

「芸術家ってそういうものなのでしょうか?聴いていると安心するとか?」

「そういうんじゃないんです。しばらくフィリップ・ジャルスキーを聴いていて。」

「カウンターテナーの?」

「はい。そしたら彼の声の1番高いところがカナリアだなって。」

へえ、一応理由はあったんだな、って俺は驚く。維織は、

「今は大体156時間はカナリアを聴いてます。」

て言っちゃって、俺はもういいやって思って、

「それも1匹の気に入ったヤツだけを動画で、繰り返えし、繰り返し。」

「そういう人は初めて会った。まあ、早く食べる物をオーダーしましょう。」

維織はまだカナリアのことをボーっと考えてるみたいで、時間的に今はバロックモードで、使い物にならないから、俺が適当に維織の分もオーダーしてあげる。そして俺のナプキンで額の汗を拭ってあげて、額に落ちた髪を耳にかけてあげたら、維織は一瞬だったけど、俺の肩に頭を持たせかける。木越さんが、

「維織さん、失礼だが、どこか身体がお悪いんじゃないですか?」

と心配そうに額の汗を見て、維織は、

「こないだ薬を飲み過ぎて。それから調子がおかしくて。」

そう言って、俺はショックで、

「そうだったの?なんで言わないの?」

木越さんに、

「病院には行かれたんですか?」

て聞かれて、俺が答えて、

「ええ。5日間ほとんど意識がなくて。でもちゃんと検査はしてもらったし。」

「私は医者なんだけど、まあ、精神科だけど。薬を飲み過ぎたって、どうしてそんなことを?」

維織が放心したように、

「光軌がいなくなったらどうしよう、と思って。」

俺はそんなこと聞いてない。どうして今ここでそんなこと言うの?あの時は理由はないって、覚えてないって、確かそう言ってた。思い付くことがひとつあって、あの暁登さんとのことがきっかけになってるのかな?精神的に無理がかかってる。それが身体にも出てる。

64

日を改めて、俺は維織と一緒に、木越さんの病院に行った。そこは個人のクリニックで、「精神科、心療内科」って書いてあった。病院には入院施設もあって、こういう個人病院にしては大きいんじゃないかなって思った。維織と木越さんは意外と長い話しをしていて、俺は待合室にかかっている古い写真を観ていた。古い病院の。おじいさんと小さい子供。多分その子は木越さん。ほんとかどうかは知らないけど。写真の横には、学校の科学室とかによく貼ってある、人体見本図みたいなのがあって、なんでワザワザこんな怖い物を飾っておくのか、よく分からない。待合室には若いお母さんと小さな子供。それに30代くらいの男性がいる。みんな黙ってなんだか心配そうにしている。俺まで心配になってきた。俺のためにバカみたいなことして、もし維織に深刻な病気が見付かったら俺はどうすればいいんだろう?でも俺のこと思っててくれたんだったら、それはそれで嬉しいんだけど。でもそんなこと言ってられない。それから俺が診察室に呼ばれて、木越さんに言われたのは、もう一度身体の方の検査をやり直すこと。それから自殺願望が抜けるまで俺がしっかり見ていて、もし抜けないようなら、入院治療も考えましょうと言われ、薬は少量出されて、俺にそれを管理するように、維織に見付からない場所に置くようにって言われた。その病院は少し遠くにあって、都心から電車に乗って30分くらいかな?今まで行ってた大きな病院は近くて悪くはなかったけど、やっぱり個人的に知ってる先生だと安心だし、話しもずっと長く聞いてくれる。だからそこまで電車で通うことになった。俺もいつもついて行く。学校の授業のない時に。30分って意外と、ふたりで色々話ができる。

「維織、まだ自殺願望があるの?」

「そうだと思う。よく分からない。」

「維織がよく分からない、っていう時はほんとは分かってる。」

「そうなの?」

「俺の経験でいくと。」

「そう?」

「どうして自殺願望があるの?俺が側にいるのに。」

「それはよく分からない」

「ということは分かってる。」

「そうか?」

「そうでしょう?」

65

今夜アネットが来ることになってて、あの絵も遂に今夜完成する。彼女は時間通りに現れて、黙って座って、耳にイヤフォーンを差したままのふて腐れた顔。彼女は維織のカナリアが嫌いだから。大きなため息をひとつついて、彼は描き始める。休憩になって覗いてみると、絵の中に白いイヤフォーンが描いてある。

「維織これ。」

「ああ、何度もうっかり描いて、また消しているうちに面倒くさくなって。」

「このままでいいの?」

「うん。今日はどうしても仕上げたいし。」

66

俺は、彼の投げやりな調子を少し心配したけど、そのままマーケットに出してしまった。そしたら意外にもとんでもないことになって、あちこちから取材を受けることになる。美術雑誌やら、ウェブマガジンやら。過保護かなって思ったけど、俺も必ず同席する。アート雑誌のインタビュー。

「維織さんといえば、マニアックなコレクターを大勢抱えていることで知られていますが。」

「そうなんですか?」

「そうでしょう?バロックの画風で天使や人物を描いてらっしゃるなんて。」

「今時いませんもんね。」

「そこで今度の事件ですが。」

維織がそこで沈黙してしまったので、仕方なく俺が答える。

「あのイヤフォーンですよね?偶然モデルがしてて、そのまま描いちゃっただけですよ。」

「我々は深い意味があるんじゃないかって。」

「そんなことはないと思いますけど。」

「貴方はこの天使のモデルさんですよね。」

「はい。」

「ほんとに深い意味はないと?」

「そう思います。」

「この綺麗な女性の方は誰ですか?」

「これは俺の幼なじみです。」

「こんな綺麗な方が実際にいらっしゃるんですね。」

そしたら維織がいきなり重い口を開く。

「これからもバロックで宗教画というコンセプトは残しますが、モデルには現代の服装を着せます。」

インタビュアーよりも、俺が先に叫ぶ。

「え、マジ?」

インタビュアーが、

「じゃあデレク・ジャーマン監督の映画、『カラヴァッジオ』みたいに、車やバイクを登場させるとか?」

「車やバイクには興味はない。」

そこでまた維織が黙ってしまったので、俺が、

「この件については、新しい絵ができてから、またお話ししようと思います。」

と言って、維織を引っ張ってサッサと帰って来てしまった。雑誌には新しい絵の全体とイヤフォーンをしたアネットのアップの写真が載るらしい。

67

次のインタビュー。老舗のゲイ雑誌。

「維織さんといえば、何度か家の雑誌の表紙にもなった、バロック調の絵で有名ですが。」

「はあ。」

維織は最初からやる気のなさそうな感じ。

「このイヤフォーンと、モデルさんの膝に乗ってるの、これどう見てもスマホかなんかですよね?」

「そうですか?」

「ご自身で描かれたんですよね?」

「そこにあったから描いただけで。」

そこで維織が沈黙の暗闇に落ちて行きそうになったんで、俺が、

「その子、俺の友達で、維織の聴いてるのが好きじゃないって。」

「へえ。なに聴いてらしたんですか?」

そしたら維織がなぜか突然蘇って、

「カナリアです。」

「カナリアですか?」

「世界チャンピョンで、すごいんです。」

俺がなるべく早くカナリアから話題を逸らそうとして考えてると、意外にもその人は、

「あれ奥が深いんですよね。俺のお祖父さんが飼ってて。」

「へえ。カナリアってやっぱり教えないと、ああいう風には鳴かないんですか?」

「そうですよ。テープ買って来てましたもん。」

「へえ。」

「でもね、カナリアって意外とデリケートですぐ死んじゃうんですよ。」

「ええ!じゃあ飼わない方がいいかな?」

維織ってそんなことまで考えてたんだって俺は感心する。

「まあ、俺のお祖父さんの飼い方が悪かったのかも知れないけど。」

そこでふたり共沈黙しそうになったんで、俺が、

「そのさっきのイヤフォーンのことですけど。」

インタビュアーが維織より先に蘇って、

「そうそう。維織さんの絵に女性が登場することも珍しいですよね?」

そしたら維織が、

「いつもエロい若い男しか描きませんからね。」

「そちらの方は最近よく絵のモデルになってらっしゃいますよね。」

「はい。」

突然俺の話しになる。

「維織さんとはどういうご関係で?」

え、いきなりその質問?さすがゲイ雑誌。俺は焦る。維織と俺は並んで座って、インタビュアーさんはテーブルの向かいにフォトグラファーさんと一緒に座ってて、維織は片手で俺の肩を抱いてもう一方の手で俺の頭をガっと押えて、ディープキス。しっかりシャッターの音。フォトグラファーさんに指示されてポーズを変えてもう一枚撮られて、そこって極普通のカフェで、おまけに通りからも丸見えの席で。俺は思わず、

「俺、これから学校卒業して、就職活動とかしなくちゃなんないんだから!」

って叫んじゃって、維織が、

「いいよ。俺が面倒見るから。」

「面倒見るって、俺の就職の面倒見てくれるんですか?それとも俺の人生の面倒見てくれるんですか?」

Whichever.(どっちでも。)」

だからその雑誌では、イヤフォーンのことは全然突っ込まれなくて、代わりに俺のキスされてる顔がバッチリ載って、しかもグラビアで、タイトルが、「俺の人生の面倒見てくれるんですか?」だって。なんで俺?超恥ずかしい。

68

その次学校へ行ったら、クラスのヤツ等に、

「見たぞ。」

とか言われて、

「なに?」

って聞いたら、そのゲイ雑誌、ネットでも配信されるから、もう俺の顔アップがみんなに観られてて、しかもその連中、維織のクラスにもいたから、もう最悪。家に帰って維織を捕まえて、

「お陰で学校の偉い人に呼ばれて大変だったんだから。」

「学校の偉い人?」

「なんか理事とかそういう人。偉そうなヤツ。」

「アイツだな。なんだって?」

「学校の品性がどうとか。よく聞いてなかったから忘れちゃった。」

「いい心掛けだな。そういうくだらんことは適当に聞いとけばいいんだ。」

維織はアートディーラーモードの終わりかけで、アーティストモードに入ろうとするところだった。

「維織のことも呼び出して注意するって言ってましたよ。そういえば。」

「俺、もうとっくに学校辞めたから。」

「どうするんですか?」

「知らない。俺あんなヤツに会いたくないし。」

「じゃあ、言っといてあげますよ。」

「へー、なんて言うの?」

「維織先生、僕の人生の面倒見てくれるって言ってました、って。」

「誰がいつそんなこと言ったの?」

俺は維織の頭をどついて、蹴りまで入れて、そして思い立って、そのグラビアをアネットに送る。すぐに例の変なウサギが、「Congratulations! (おめでとー!)」って書いた札を下げたヤツが帰って来る。

「アネットがCongratulations!とか言ってます。」

「あ、あの子、今度来る時、原宿っぽいフリフリのミニドレス着て来てって言って。」

「大丈夫。アイツそういう服しか持ってないから。」

69

ドアを開けて、思った通りのカッコで現れて、でも俺はひと目見てヤバいなと思う。アネットのドレス、ウエストの辺りがピチピチになってる。それに顔も前より丸くなったような気がする。維織が、

「あれっ、君少し太った?」

俺はアネットのこと知ってるからオロオロする。彼女はいつも俺にケータイで送って来る、ウサギのスタンプそっくりに涙をワーワー流して泣き始める。

「維織、ダメだって。センシティブなんだから。」

「あ、でも丁度いい。今日、泣いてる役だから。」

「そういうことじゃなくって。」

「光軌、君が死んだキリストで、アネットがそれを悲しむ聖母マリアだから。」

俺は例の1着しかないスーツでなかなか上手くアイロンのかからないヤツで、それは明るいネイビーで、アネットのドレスは少女漫画みたいな青いバラ。悪くない配色。俺はソファに斜めに横になって死んでて、アネットは俺をちょっと膝に乗せるみたいにして、微妙にバランスをとったポーズ。彼女はまたふて腐れて、死んだ俺の腹の上でケータイをいじり始める。涙を流したまま。スケッチを始めた維織は、

「心配しなくてもちょっとエクササイズしたら、すぐまた元に戻るから。」

これを聞いて、アネットはまた最初から泣き始める。

「俺の行ってるジムがこのマンションにあるから、あとで俺のインストラクター紹介してあげるから。」

「あたしのエージェントがなかなかいいインストラクターがいないって。」

「アイツだったら大丈夫。俺が言ってあげる。」

悲しみにくれるマリアはなぜか立ち上がって、維織の周りをグルグル回って、彼の手から絵筆を奪って、身体を触り始める。しょうがないから維織は上だけ脱いであげて、アネットは、

Wow! You’re waist is smaller than mine!(わー、あたしのウエストより細い!」

て叫んで、維織の身体にベタベタ触り始める。アネットが俺の男に触るのを見てると、変な感じがする。

I wanna see the gym.(そのジムに行ってみたい。)」

維織はくすぐったそうにしながら、それでも嬉しそうに、

2年間鍛えたからな。それより早く座って。」

アネットはそのジムに行くまでモデルはやんないもん、っと駄々をこね、結局俺達は3人で下のジムに行くことになった。

70

彰直さんという、維織のインストラクター。

「あれ、維織さん、こんな時間に?」

「この子がどうしても会わせろって。」

最初、彼は俺のことだと思ったらしくて、

「へー、細いね、君。」

「俺じゃなくって、その子。アネット。」

「アネット?」

「はい。アネットと申します。どうぞよろしくお願いいたします。」

どこまでも営業スマイル。そこは俺も初めてだけど、思ったよりずっと広くて、マシーンもたくさんあって、見回した限りでは、相当プロフェッショナルにトレーニングしている人が多そう。

「とても素敵なジムですね。」

この女は、ちゃんと日本語喋れるクセに、こういう時は可愛らしく片言を装う。

「君、なにやってんの?」

「モデルです。」

「今、いくつ?」

22です。」

「なるほどね。」

彰直さんは彼女の周りをグルグル回る。アネットはますますビッグなスマイルで、

「維織さんのような鍛えた身体になりたいんです。」

「なるほどね。まだこれからのキャリアも長いし。今、モデルさんも綺麗なだけじゃなくて、もっと特色を持たないといけないって聞いてる。俺も何人かやってるけど。女性は初めてだな。でも維織さんの頼みならしょうがないけど。じゃあちょっとそこ、ひと回り歩いてみようか。」

「はい!」

元気なお返事。維織が血相を変えて、

「ダメだって、今忙しいんだから!」

「まあまあ、維織さん、善は急げって言うから。」

アネットは片言の日本語で、

「善は急げ!善は急げ!」

71

結局俺達は、彼女をそこへ置いてふたりでスタジオに戻って来た。維織が頭を抱えて、

「俺のマリア様は?」

「俺だけ死人やりますか?」

さっき座ってたソファに戻って、死んだふりをする。

「しょうがないからセックスでもしようか?」

維織が死んでる俺にキスをする。俺は途端に生き返って、王子様のキスで生き返るプリンセスみたいな気分になって笑い出す。

「どうしたの?」

「今の笑える。」

「なんで?」

「王子様のキス。」

「ああ。」

彼もちょっとクスって笑う。

「維織って俺とセックスする時なに考えてんの?」

「なんで?」

「俺なんてこんな細くって、全然好みじゃないんでしょう?」

「俺そんなこと言ったことないけど。」

「分かるから。」

「そうだったな。」

「さっきのジムの。」

「誰?彰直?」

「そう。あの人みたいな感じ好きでしょう?ヤったことあんの?」

「まだない。」

「どういう答え?まだ、って。」

72

維織は俺の隣に座る。ほんとは彼のマリア様が座るはずだった所に。

「光軌とセックスする時、いつも思い描くシーンがあって。」

「うん。」

「夕暮れに、俺が背の高い草の生えた谷間に隠れて寝ていると、君が飛んで来る。大きな天使の翼の。」

「俺は天使なんだ。」

「そう。身体は細いんだけど、鋭い嘴と爪を持った、狩りをする鳥。」

「ふーん。」

俺は自分の手の爪を見て、それを動かしてみる。

「そして俺のいる所は、四方を山で囲まれていて、見付かるわけがないのに、なぜか君はいつも俺を見付けて。」

維織は時々するように、俺の肩に頭を乗せる。

「君は俺を捕まえて飛び立って、高い崖の途中にある君の隠れ家に連れて行く。俺は何度ももがいて、何度か地上に向かって落ちて、でも君は必ず俺をまた捕まえて。俺の身体は、鞭や釘で打たれたキリスト像みたいに、たくさんの血にまみれて。」

なんだか怖くなって、維織のことが心配になって、俺は彼の髪に触る。

「そこで俺はまた君の洞穴みたいな隠れ家に連れ込まれて、そしてヤられる。その洞窟は中は広くて奥が深くて。不思議なんだ。外はもう暗いのに、洞窟の中は明るくて。俺には君の翼が俺の血で染まってるのがよく見える。」

そこで話しが途切れて、俺はまた少し心配になって、維織ってベッドの中でそんなこと想像してるんだな。アーティストだから?だったら俺だってそうだし。前されたことあるみたいに、彼は俺の胸に顔を埋める。そしてまた話し出す。

「そして君は羽をバタつかせて、そうだな、白鳥の羽みたい。湖から飛び立つ時の。」

「そのイメージは悪くないね。でも俺って鳥なんだ。」

「そう。そうすると洞窟の中の砂ぼこりが舞い散って、それが光りに当たってキラキラ輝く。」

「そのイメージも悪くないね。でも変なの。俺の方は1度もそんな気持ちになったことない。」

維織はまだ俺の胸に顔を寄せたまま、俺の手に自分のモノを触らせる。ソレはヤバいくらい硬くなってて、俺達はいつ帰って来るか分からないマリア様のために、ベッドルームに行ってカギをかけて、サッサと済ませて、またサッサとスタジオに戻った。

73

その途端にアネットが帰って来る。

「あーあ、善は急げ!善は急げ!」

って走りながら。

「あのインストラクターさん、素敵。」

維織が、

「彰直?」

「うん。あの人、ゲイ?」

「ああ。」

「あたしの周りのいい男はみんなそう!」

「君は彼氏いないの?」

ソファの上で死んでいる俺が、

「いるわけないでしょ?こんな我儘な女。」

「うるさい!ほっといて。」

彼女は俺の上でまたケータイをいじり始める。維織はまた彼女のケータイも絵の中に描くのだろうか?考えてみたら、プロの絵描きが側にいるのに、俺は最近あんまり自分の描いた絵を見せてないな。なんでだろう?学校の先生には提出してるんだけど。自分の心をさらけ出してしまうのがイヤだから、だと思う。維織はよく俺のこと、なに考えてるのかサッパリ分からないって言うけど。絵を観たらきっと分かってしまう。俺がどれだけ胸を熱くして彼のこと思ってるかとか。恥ずかしくてそういうの絶対知られたくない。俺は死んでるイエス様で、でも身体のあちこちに穴が開いて血を流しているような気はしない。こっそり隠れて、自分の指の爪をもう一度見たけど、人の肉を裂くようなことなんてできそうもない。アネットはケータイをいじりながらとても楽しそうに、鼻歌を歌ってる。維織がたまりかねて、

「君ねえ、嘆き悲しんでる役なんだから。」

アネットは意外にも素直に、静かになって、今度はなんだか知らないけど、英語でネットの小説を読み始めた。でも維織って俺のこと、ヤりたがりの猛禽類だと思ってんだな。俺はさっきの彼の妄想話しを、自分の立場で考えてみた。なんだっけ?俺が飛んで来て、草むらに隠れている維織を見付ける。そりゃすぐ見付かるよな。どこに逃げようと、俺は決して彼を逃がさない。自信がある。じゃあ、この最初のとこは当ってるんだな。次になにが起こるんだったかな?鋭い爪のある足で維織をつかんで飛び立って、自分の隠れ家の洞穴に連れて行く。この辺で既にかなりセクシーだな。そして維織が何度も逃げようとしてもがいて、空から落ちて行こうとしても俺はまた羽ばたいて、彼を捕まえる。そりゃ、そうだよな。逃げられるわけないし。下に落ちたら死ぬし。そして俺は維織を洞穴に入れて、エッチしちゃうんだ。それって強姦?ヤバいじゃん、それ。維織って強姦願望があるのかな?あ、でもそうかも知れない。思い当たる節が無きにしも非ず。元カレと揉めてたの知ってるし。暁登さんのことも。維織ってベッドでも見かけによらず受け身だし。よく分かんないけど、そういうのをちゃんと考えてみたら、維織の自殺願望とかがなくなるのかも。

74

休憩になって、俺は生き返って、アネットは、

「維織。なんか食べるもんない?」

維織を呼び捨てにできるの俺だけなんだから。まあ、いいけど。俺は彼女に、

「お前、ダイエットしてるんだろ?」

とやんわり言ってみる。

「さっき運動したらお腹空いた。」

「お前も昔は真面目だったよな。絶対、一流のファッションモデルになるんだもん、って。」

「もうなったんだからいいじゃない?」

維織が横から口を出して、

「じゃあ君はこれからなにがしたいの?」

「あのねえ、あたしセックスがしてみたい。」

「え、したことないの?」

俺は知ってるけどさ。彼氏いた試しないもん。アネットは口を尖らせて、

「いいもん。そのくらい普通だもん。」

「ほんとに光軌とはなんにもないんだね。」

「決まってるでしょ?」

「君、いい男をつかまえたかったら、その美しいボディをキープしないと。」

俺がついでに、

「一流のモデルだって言うけど、上には上がいるんだぞ。」

美しいボディーをキープなんて、さっきは太った、って言ってたクセに。調子いい男。アネットは冷蔵庫から梅干しの入れ物を持って来て、食べてはその後、種をしゃぶってる。絵に戻っても、ケータイの小説が悲しいのと、梅干しが酸っぱいのでなかなかいい、嘆きの表情をしている。俺はなぜか急に、せっかくピカピカにした俺のダークブラウンの靴が、ちゃんと絵に入ってるかどうか心配になる。

「維織、俺の靴ちゃんと見えてる?」

「見えてる、見えてる。」

「よかった。」

75

やっと絵のモデルが終わって、アネットが帰り際に深々と維織にお辞儀をして、

「今日はありがとうございました。」

だって。

He might be bisexual.(もしかしたら彼、バイセクシュアルかも。)」

Who?(誰?)」

Akinao, your new instructor.(彰直、君の新しいインストラクター。)」

Really? I’ll ask him. Thanks.(ほんと?聞いてみます。ありがとう。)」

そしてもう一度深々と頭を下げた。俺はいつものように、彼女を車まで送ってあげる。

「あたしも光軌みたいにラブラブな彼氏が欲しい。あたしのいないちょっとのスキにヤってんだから。」

「ええっ!」

「分かるもん、顔見たら。」

「マジ?」

「冗談!でも当ったね。」

アネットは俺の周りをスキップして歩く。彼女の車は可愛くてちっちゃなオレンジ色。お休みのキス。送って家に帰ると、維織が、

「彰直は情け容赦しないタイプだから、あんなのに本気になったら、絶対に我儘通らないし、いい薬だ。」

と言って不気味に微笑む。俺は幼なじみだから、ちょっと可哀想になる。そして何気なくまた自分の手を見る。俺なんてとても猛禽類なんていうイメージじゃないのに。俺の爪の中には絵の具がいっぱい入り込んでる。なぜだかそうしたくなって、本棚の隅に隠してある箱を出して、維織の目の前でそれを開ける。しばらく描き貯めてた俺の絵。彼はそれを机の上に並べて、全部並べるのは大変なほどの数があったから、俺も手伝った。

76

「君の色。」

維織は腕を組んで俺の絵を観る。大きなのはなくて、みんな小さい可愛らしいサイズのキャンバス。

「俺は色っていうのは自分で創るのだと思っていた。君の絵はほとんど原色なのに、悲しい感じがある。」

「悲しい感じ?」

「だって普通、チューブの色をそのまま使えば、強い調子が出るじゃない?でも君のはそうじゃない。」

「そうかな?」

「このグレー。絵の具メーカーが勝手に解釈したグレー、っていう色だろ?君が使うとそれが変わってしまう。」

「そういう風にしようと思ったわけじゃないです。ただ俺にとってグレーって透明な色だから。」

「透明な色?」

「そのつもりで描いたんです。」

「だけど、俺は君の絵の先生じゃないからな。」

「少しなんか言ってくれてもいいでしょう?」

「じゃあ、このグレー。俺にはこんな色出せないな。」

「滋通さんも同じこと言ってました。でもチューブから直接出しただけですよ。」

「水も混ぜずに。」

俺はそのグレーだけの絵を観てみた。そんなに成功したとは自分では思ってないんだけど。ほんとはもっともっと透明感が欲しかった。

「どうすればもっと透明感が出るのかな?」

「俺が君に聞きたいよ。どうしたらこんな色が出るのか。」

考えてみたら俺達、今夜はもうヤることヤっちゃたし、維織はアーティストモードとバロックモードを行ったり来たりしてるし、絵を見せるにはいいチャンスだなって思う。

「俺の学校の先生達はそうは思ってないみたいですよ。」

「なんだって?」

「グレーだけじゃ絵にならないって。」

「そういうヤツ等の言うことは適当に聞き流していいから。」

「そうですよね。でもね、ひとりの先生が言ってたんですけど、雨上がりのグレーの空に虹がかかるから、グレーの美しさが際立つんだって。」

「ふーん。でも虹が描きたいわけじゃないんだろ?」

「全然。」

「いいんだって、聞き流しておけば。」

「あとね、コマーシャルじゃないって。」

「売りたくて描いてるわけじゃないんだろう?」

「今のところはそうです。」

「じゃあ、好きな絵を描いて、売れなくても困るのは君なんだから、他の人がとやかく言わなくてもいい。」

「維織、先生辞めてよかったね。」

「それは、言われなくても。」

「こんな先生がいたんじゃ、授業になんないもんね。」

あの学校で維織に会って、まさかこんな風に一緒に住んだりなんだりすることになるなんて。なんだか今が俺の人生の中で一番いい時じゃないかな、って考えたら自然に涙が出て来て。おまけに初めてここに来た次の朝、虹が出ていたのを思い出して、思わず号泣。

「光軌、そんなに絵が売れなくて悲しいんだったら、もっと売れそうな絵を描けば済むことだから。俺だって多少は作為的なとこはある。」

「そうなの?」

俺は涙をそこらにあったタオルで拭く。絵の具がいっぱい顔につく。維織が笑いながら綺麗にしてくれる。

「そりゃあな。俺も顧客がゲイばっかだと、まあ、別にそれでもいいけどな。たまには可愛い女の子でも入れたいと思うわけじゃない?」

「でも維織はアネットの顔がバロックしてるって。」

「そうだけど、それだけじゃないじゃない?打算?色んなインタビューも来たし。」

「じゃあ、あのイヤフォーンも?」

「あれはほんとになんにも考えてなかった。彼女の顔を描くことばっかり夢中になってて。」

「でも、それが新境地に向かって行くきっかけになったし。」

「まあな。」

「今夜はまだこれから描くの?」

「もうちょっと。」

俺は自分の部屋に行って、さっきの号泣の続きでもしようかなって思ったけど、途中にキッチンがあるんだけど、そこで止まってビールを飲みだした。スタジオからフィリップ・ジャルスキーが聴こえて来る。カナリアからまた彼に戻ったのかな?やっぱり彼はカナリアみたいに歌う。だから同じことか。維織って分かりやすい性格してるとは思うけど、俺には彼の自殺願望とか、ああいう面は理解できない。病院に一緒に行く時は、いつもと比べて少し暗い。当然だけど。芸術家だから?だったら俺だってそうだし。いつも思うけど。年のせい?俺もあと少ししたら、ああなるのかな?生きて行くことへの疑問とか感じるようになるのかな?そうは思えないけどな。ひとりでキッチンでボーっと考えながら2缶目を飲み終える。彼の好きなカウンターテナーが聴こえる。珍しく少し酔って、俺はスタジオに戻る。維織は絵筆は持ってるんだけど、絵は描いてなくて、俺みたいにボーってしてる。音楽を聴いているのかなって思ったけど、そんな雰囲気でもない。

「維織、モデルがいるんなら・・・」

「ああ。でもそんなんじゃないから。」

「なに考えてんの?」

「俺も色々あったけど、今、君といるのが一番幸せだな。」

なんだ、維織も俺と同じこと考えてたんだな。なんだか不思議、でも嬉しい。俺はまた号泣に戻ろうとも思ったけど、ビール飲んじゃったし、それは止めて、

「でも、これからどうなるか分かんないよ。」

「どういう意味?」

彼はマジで聞き返す。

「さあ?」

俺は笑って、まだそこに置いてあった自分の絵を片付ける。

「あ、君の絵ね。何枚かクライアントに見せたいのがあるから。」

「ほんとに?」

「小さいのいくつか、フレームに入れて。」

「どんな人が俺の絵なんて欲しがるの?」

「目の肥えた客。」

「そんな。売れたら俺、どうしたらいいの?」

「困ることでもあるの?」

「どんな顔していいのか分からない。」

「それは困ったな。」

俺はずっとバイトしながら2浪して、絵は描いてたけど自分だけの狭い世界で。

「俺、まだ勉強中だし。」

「まあ、相手がなんて言うか聞いてみればいいじゃない?」

「え、俺も聞くの?」

「その方が勉強になるだろう?」

「でも、そのグレーに虹でも描けって言われたら?」

「そういうこと言うようなヤツに君の絵は見せない。」

維織は絵に戻って、今度はちゃんと、死んでる俺と泣いているアネットの上に天使をバタバタ飛ばせている。いつもより天使の人数が少ないような気がする。それにいつもより天使の年齢が若い。いつもはティーンエイジャーくらいのが多いんだけど。人間って変わるものなのかな?だから絵も変わっていくのかな?俺も変わるのかな?そしたら俺の絵も変わっていくのかな?

Part5

77

朝、いつものように光軌の腕の中で目が覚める。俺はなぜか、どんな男とでも必ず抱かれる側だ。このマンションは俺のビジネス兼住居で、特にこのベッドルームが気に入っている。天井から床までがガラス張り。ベッドの中から見たら丁度雨が降り終わるところ。光軌を起こさないように腕から抜け出て、そっとベッドから降りる。虹を探したけど、見当たらない。

「なにしてんの?」

彼の甘い声がする。

「虹を探している。」

言ってから、それはいくらなんでもキザなセリフだと思ったけど、もう遅い。

「見付かったの?」

「まだ。」

光軌はこの頃、急に大人びて、それが俺を不安にさせる。暁登が行ってしまったように、彼もどこかへ行ってしまうような気がする。どうして暁登のことを思い出したんだろう?ふたり共俺の絵のモデルだから?分かった。それは暁登から夕べメールが来たから。どこで俺のメールアドレスを知ったのか不思議に思ったけど、彼が鉄司の所に住んでるなら当然のこと。例の大きなギャラリーでやる彼の個展の招待状。行けるわけない、って思う。でも次の瞬間に、そんなことない、行ってやろうかとも思う。招待状が来た時、なんとなく挑戦状が来たような気がした。俺の過去のふたりの男から。暁登と鉄司。でもヤツ等と争う意味はもうない。

「また他の男のこと考えてる。」

彼はまだベッドにいて、俺は夕べ自分が脱ぎ散らかした服を集めて回る。

「暁登の個展のことを考えてた。」

「いつ?」

「明日がオープニング。」

「行ってみたい。」

「なんで?」

「どんな絵を描くのか観てみたい。」

俺と暁登が別れる直前、彼はペインティングとステンドグラスの中間みたいな作品を創っていた。透明感、というのがその頃の彼のテーマだった。そういえば光軌も透明感という言葉を口にしていた。行ってみるか?光軌と一緒なら怖い物はない。最近俺には怖い物がたくさんある。前はそうじゃなかった。年齢かな?失うと困る物がある。俺の方にも個展の話しがある。暁登のギャラリーとは比べ物にならない、小さくて新しいギャラリー。ファッショナブルな通りにたくさんのブティックと並んで、これまではほとんどイラストか写真の展示だったらしい。俺にオファーが来た時、いい度胸だなって思ったけど、断るのも面倒くさいと思って引き受けてしまった。暁登をモデルにした俺の昔の絵をそこで叩き売るつもり。でもまだよく分からない。俺の絵は一部のマニアにしか売れないくせに、値段だけ上がっていく。俺が決めた値段ではなくて、よく知らないけどなにか公的な機関が毎年決める値段。

78

俺は服を着てオフィスに行く。光軌はまだベッドにいる。あんまり若いのと一緒にいると疲れるな。なかなか離してくれない。それに彼は、なかなかイかないから余計疲れる。女の子にはいいかも。女とリズムが合いそうだ、って笑ったら、妙に憤慨していた。NYのギャラリーからもっと絵を送れって言ってきている。例の仏陀の絵。滋通の。なんで売れるのか分からないけど、よく売れている。滋通に連絡しようと思ったけど、こないだ新しいのを何枚か持って来て、それからいくらも経っていない。まあ、電話くらいいいだろうと思ってかけてみる。

「新しいのある?」

「いくつかあるけど。」

「相変わらず描くの速いな。」

「売るための絵だから。」

「じゃあ、他にも描いてんの?そっちも持って来て。」

「いつ?」

「今。」

彼は近くに住んでるので、ビックリするほどのスピードでやって来る。いつもはビジネススーツだけど、今日は普段着みたいな適当なカッコで、それが逆にそそる、けど当然なにもできない。それを感じたのか、光軌がオフィスに顔を出す。彼はなにも言わなくても俺のよこしまな気持ちを察する。仏陀の絵は相変わらずで、俺は全部それを引き取って、今度は彼の売るためじゃない方の絵を観る。

「天使なの?」

「まあ。」

仏陀の絵とタッチは似てるんだけど、色はずっと暗い。俺の描くようなバタバタ空を飛んでるんじゃなくて、肖像画に近い。バロックじゃなくて、もっと今時の天使。その表情も暗い。象徴主義的とさえ言える。その天使自身の他に、なにか別の意味があると思わせるような。

「こっちの方がずっといいじゃない。」

と俺が言うと、滋通の顔が急に明るくなって、

「そうかな?」

「テーマもいいし、色もいい。」

そしたら滋通は光軌の方を向いて、

「君の言ってた方法でグレーを出そうとしたけど、全然ダメだった。」

でも光軌はなにも言わずに口元だけで微笑む。多分俺がなんか言った方がいいと思って、

「塗り方が違うんじゃない?筆とか。もしかして温度かも。」

光軌はちょっと考えて、

「あれはね、下に1度白い絵の具が塗ってある。」

「そうなの?じゃあそれやってみてもいい?」

光軌はまた微笑むだけでなんにも言わない。

79

滋通が帰ってから、

「なんで滋通にあんなこと言ったの?」

「なんのこと?」

「下に白が塗ってあるって。」

「別に俺の特許じゃないでしょう?」

「そうだけど。企業秘密?」

結局俺は、滋通が持って来た天使の絵を全部引き取った。3枚ある。光軌はそれをジロジロ観ながら、

「それはこの絵が気に入ったから。」

って、つぶやいて、

「でもアイツのことは今でも好きじゃないけど。」

そう付け加えた。彼は俺の座ってる椅子の隣に来て、俺の太ももに手を乗せる。いつか滋通が俺にそうしてたの、まだ覚えてるんだな。可愛いなって思う。でも、どんどん大人びてくるこの若者に、可愛いはもう似合わないかもしれない。スタジオでいちゃつく画家とディーラー。窓から斜めに陽が差して、退廃的なイメージ。

「光軌。これから俺のクライアントで、久保木さんっていう方が来るから、君の絵も見せてみたい。」

「マジで?」

「今日、学校午後からだろ?丁度いいと思って。」

「久保木さんは、絵を欲しがってる商業ビルとかレストランチェーンとか、そういうお客さんをたくさん持ってて、最近自分でも小さいギャラリーを始めた。」

「あ、今度維織が個展やるとこ?」

「そう、そう。その打ち合わせもあるから。」

久保木さんは、まだ30前後の若い女性。いつも彼女自身言ってるけど、彼女は絵を描かないから、客観的にお客さんと同じ目で絵を観られる。俺は絵を描くけど、どうだろ?自分ではビジネス的に、客観的に画家達の絵を観ているつもりだけど。

80

こないだ珍しく、絵の売り込みに来たヤツがいた。3日くらい前のこと。光軌が通ってるアートスクールで、俺の生徒だったヤツ。なんとなく顔は覚えてたけど、あんまり印象にない生徒で、でもあっちはこっちのことをよく覚えていた。

「そのうち、先生に1度僕の絵を観てもらおうと思ってて。」

きちんとした、アイロンのかかったシャツを着て、少し緊張気味に見える。俺が誰かを緊張させるなんて、考えてみたら可笑しい。絵は10枚あって、キャンバスじゃなくて、みんな厚手の画用紙に描いたパステル画。相当長い間このスタイルでやってきたんだろうな、ってパッと見て俺は思った。色の混ぜ方に独特の手法がある。抽象なんだけど、その陰になにかが描いてある。変なモノ。なんだかは分からない。

「君って、幽霊とか見える方?」

彼はハッとして、

「なんで分かるんですか?」

「だってそこに描いてある。」

「見えないんですけど、気配を感じて。いる時は気付かないけど、いなくなった瞬間に、あ、いたんだなって分かるんです。」

「それは君の家で?」

「それもあるんですけど、友達の家とか。」

「怖くないの?」

「目には見えないし。」

「その何者かを描いてるんだ。」

「なんで分かるんですか?」

「まあ、俺もプロだから。」

なんてカッコつけて言ったけど。昔、俺が美大に行ってた頃、クラスにこれに似た絵を描いてるヤツがいて、同じような話しをしていた。いい絵だとは思うけど、売る自信がいまいちない。テーマが重い。どうしよう?ハッキリ言った方がいいかな?しばらく考える。幽霊の絵。

「その幽霊はなにしにやって来るの?」

「それは分かりません。」

「それはひとりなの?それともいつも違うの?」

「いつも違います。」

「へー、そうなんだ。」

「実は、人間よりも動物の方が多いんです。」

「カナリアは?」

「えっ?この絵、これカナリアですよ。」

彼はその中の1枚を指差した。

「飛んでるんだ。」

「そうです。」

「カナリアってすぐ死んじゃうって聞いたけど、本当かな?」

「長い間人間によって勝手に交配されたものだから。」

「なるほどね。」

「なんでカナリアって分かったんですか?」

「さあ、不思議だな。俺には霊感ってヤツは全然ないんだけど。最近カナリアにはまってて。」

「飼ってらっしゃるんですか?」

「でもすぐ死んじゃうって言うから。」

「原種に近いヤツだったら丈夫だと思うんですけど、逆に人間に飼われたら弱くなるでしょうし。」

「じゃあ、もうカナリアを飼うのはよそう。」

そしたら彼は笑い出して、

「先生は学校にいる時から相当変わってましたけど、変わらないですね。」

「もう先生は止めようよ。」

俺は彼の笑い声を聞いて、やっぱりハッキリほんとのことを言ってやろうと思った。

「俺がマネージメントしてる画家の絵はね、これよりずっと軽い絵。ほとんどビジュアルだけの。君のはいい絵だと思うけど、テーマが重すぎるから、俺に売る自信はない。」

「そうですか。」

あんまりガッカリしてる風でもない。

「他にも色んな人に見せたの?」

「はい。暗いとかって言われます。」

「色彩は明るいのにな。でも、暗いって言う人は君の絵を分かってくれてるんだよ。」

「はい。そう思います。」

俺はふと思い立って、彼の10枚の絵をテーブルの壁際に並べてみた。少し遠くから観ると、やっぱり明るい色彩の方が目立って、暗いテーマの方が後に下がっていく。

「俺のアドバイスだけど。」

「はい。」

「君の絵を買う人は、幽霊なんて絶対見えないタイプだ思う。だけど潜在的にはちゃんと、君の絵の中に感じてて、だから欲しいと思う。そういう人達。」

「そうは考えたことなかったです。潜在的にですか?」

「だからもっとコマーシャルな、若い人をターゲットにした所に行くといいと思う。」

その時俺は、彼に久保木さんの名刺を渡した。

81

インターフォンのカメラで見たら、久保木さんだ。いつも通り、彼女の職業にしては流行のスタイル。俺は彼女の派手なネイルを褒めてやる。これが1番効く。

「維織さんの生徒さんいらしたわよ。」

「ほんとに?早いな。」

「綺麗な絵でビックリした。」

「どうするんですか?」

「他の若い子達と1緒に合同展やろうかなって。」

「へえ。どんなアーティストと組ませるんですか?」

「まだ分かんないけど、明るいの。」

よかった。彼女は絶対幽霊とは縁がないと思った、俺の判断は正しかった。そしたら彼女は、

「フレンドリーなゴーストだから。」

「えっ?」

「あの絵の中にいるゴースト。」

「見えるんですか?」

「もちろんよ。私のことを誰だって思ってるの?」

って、自分で言って、ケラケラ笑っている。そこへ光軌が入って来る。緊張気味。当然だけど。学校の先生達と俺以外のプロフェッショナルに自分の絵を見せるの初めてだから。彼女はパッと観て、

「あの子と組ませましょう。」

と顔を輝かせる。俺は、

「あの子って?」

バカみたいな質問をする。

「ええと、岡田君。」

例のゴースト画家。彼は姿も印象薄いけど、なぜか名前も絶対覚えられない。ゴーストの影響?岡田と光軌。同じクラスで抽象で、色彩も明るい。でもテーマが全然違うから、確かに悪くない。似過ぎてもいけないから。久保木さんは嬉しそうに光軌の絵を手に取る。

「私って、青田刈りがモットーだから。学生さんなら、なおいいわ。」

それを聞いて俺は焦る。俺も彼女の所で個展をすることになっている。やりたくてやる訳じゃないけど。

「えっ、でも俺は?」

「維織さんは、私の所みたいなトレンディーなギャラリー初めてでしょう?私、初めてなことが好きだから。」

トレンディーなギャラリーね。まあ、いいか、って考えてたら、しばらく固まっていた光軌がとんでもない声を出す。

「えっ!なに、なに?」

俺がなにか言う前に、久保木さんが説明する。

「だから、君と岡田君ふたりで、合同展をやりましょう。」

「でも、俺。」

「なあに?」

「岡田は何度もコンテストで優勝してるような絵描きですよ。外国のコンテストにも入賞してるし。」

「それじゃあ、君は自分のことなんだと思ってるの?」

「俺は2浪して、やっと今の学校にやっと入って。」

俺が横から口を出す。

「岡田君と同じクラスなんだろう?」

「岡田は美大出てから、家の専門学校に来てるんですよ。」

「なんで?」

「知らないけど。暇潰し?」

「彼にはまだ学びたいことがあるから来てるんだろう?」

久保木さんは、

「私がやるって言ってるんだから、君に断る権利はないから。」

と言って、いつもみたいにケラケラ笑う。俺は感心して、彼女は見てくれはアネットなんかと変わりないくらいの、チャラチャラした感じなんだけど、きっとこの強引さで世の中渡って来たんだな。

82

久保木さんが帰ってから、光軌が意外なほどナーバスになる。俺に抱き付いてくるほど。

「維織。俺どうしたらいいの?断る権利がないって?」

「プロのギャラリーオーナーとして、彼女は君と岡田君の絵が同等に売れると思ってるんだよ。」

「実力に差があり過ぎる。」

「俺はそうは思わないけど、あと3ヶ月あるんだから、もっと描いたら?」

「そんな簡単なこというけど。」

光軌はいつもの、あんまり色々気にしない性格の彼らしくなく、涙を流してそれを俺のシャツの肩で拭う。

「岡田と比べられるなんて。」

「誰も比べたりしないよ。」

83

今日は暁登の個展のオープニング。俺はやはり気後れがしたが、光軌と一緒だからかなり心強かった。なぜだろう?俺にもこんな若くてイケメンの彼氏がいることを、昔の男達に知らせたい?多分そんなこと。そのギャラリーは贅沢な造りで、都心にしては広くて、作品はやはり昔のように、ペインティングとステンドグラスを組み合わせた独特のもの。そのふたつの素材がパッチワークみたいにつなぎ合わさっている。そしてそれらは壁に貼ってあるのではなく、宙に浮いたような感じのディスプレイだ。オープニングのパーティーだから大勢の人がいる。光軌と一緒に人ゴミに紛れる。そうすると少し安心する。作品は良くできている。昔とは違う。ステンドグラスにしても、もっと高度なテクニックを使っている。暁登や鉄司に見付かる前に、こないだ会ったゲイ雑誌のエディターとフォトグラファーに捕まった。エディターの彼が、

「おふたり相変わらずお熱いですね。」

そう言って近付いて来て、俺は、

「はい。お陰様で。」

と冗談っぽく返す。

「少しインタビューいいですか?」

「ええ。」

近況を聞かれて、もうすぐやる自分の個展のことをたっぷり宣伝させてもらう。カメラのフラッシュが光って、鉄司がやって来て、

「こんな所でお前がインタビュー受けてるなんて。」

彼にしては本気で怒りを見せる。俺は関係ないと思って、返事はしない。エディターの方から来たんだから、俺のせいではない。俺はエディターに向かって、光軌の合同展の宣伝をしてやる。光軌は恥ずかしそうに俺の後ろに隠れる。俺達は数カ月違いで同じギャラリーで個展をやることになる。エディターに光軌のフルネームを聞かれる。雑誌に載るのは確実だな、って思って、鉄司の方を見る。ヤツは、

「こんなところで自分達の宣伝なんて。」

エディターが、

「すいません。暁登さんのインタビューしたかったんですけど、お忙しかったので。」

鉄司は返事もせずに暁登の側に戻って行く。光軌が俺の腕を引っ張って、ギャラリーの2階の展示室に連れて行く。そこはあまり人がいないので、少し静かに話しができる。

「今の人、俺の学校の理事ですよね。今、思い出したけど、あの人俺達が暁登さんに会った時にあそこにいた人ですよね。」

「君はそんなこと気にしなくていいから。」

「でも、気になります。あの人なんで暁登さんのこと知ってるんですか?」

「それは俺にも分からない。ふたりが出会ったのは、俺が暁登に会う前なんだ。」

「じゃあどうしてさっきの人、維織のこと知ってるの?」

「それは俺があの学校で教えてたから。」

「ウソついてる。」

「君がそう思うのは勝手だけど。君が気にすることはなんにもないから。君が来てくれなかったら俺は今日ここに来られなかった。暁登の所に行って改めて君のことを紹介するから。」

俺達はまた階下の人ゴミに紛れる。徐々に暁登に近付いて、やっと話ができて、作品について社交辞令の御世辞を言ったりやらして、光軌のことを紹介する。

「一度会ったと思うけど、光軌と俺は一緒に住んでて。」

俺はわざとらしく、俺より背の高い光軌の背中に腕を回す。そうしたら、さっきまでシャイに俺の後ろに隠れていた光軌が暁登と握手して、堂々と会話を始める。

「作品素敵です。ステンドグラスってちゃんと観たことなかったけど。俺も絵を描いていて、透明感っていうのがテーマなんですけど、こういうアプローチもあるんだなって。」

暁登はこないだ会った時みたいに、流行っぽくヒゲを伸ばして、ボータイはしてなかったけど、タキシードだったから、よけい昔とは違う人みたいに見えた。コイツをモデルにして俺はいくつ絵を描いただろう?ヤツは、俺と光軌を交互に見ながら、

「俺の作品は透明感というより、色んな色のガラスを通して見える別の世界、みたいなそんなテーマ。」

光軌は、

「なるほど。維織の絵に描かれた暁登さんをいつも観てたから、本人に会えるなんて不思議な感じです。」

それを聞いて、暁登はちょっと皮肉っぽく笑って、

「あの時の俺はもう存在しないから。」

「どうしてそう思うんですか?」

なんだか噛み合わない会話。それは俺だけが感じているのかもしれない。俺は光軌を引っ張って暁登のいる場所を離れる。さっきからずっと鉄司が鬱陶しく、暁登を守るように側にいて、俺達の会話を聞いている。それがイヤだった。さっきのゲイ雑誌のエディターとフォトグラファーが側を通りかかったから、いつかみたいに俺と光軌の熱いキスをしっかり写真に撮ってもらった。暁登のオープニングに来るような連中はゲイが多いから、みんなに拍手してもらった。嬉しかった。

84

ギャラリーの近くにちょっと名の知れたレストランがあって、俺達はそこで食事をすることにしていた。席に案内されるなり、光軌は泣き始める。最近彼はよく泣いている。

「悔しい。俺だって今に立派な作品を創って、立派なギャラリーで発表したい。もしかして俺の作品って地味過ぎるかも。」

「他のヤツと比べることないって言っただろ?アイツ等は人間的に破滅してるから。」

そしたらなぜか彼は目に涙を浮かべたまま、ゲラゲラ笑い出す。情緒不安定?3ヶ月後の合同展がストレスになってるんだろう。まだ学生なのにプレッシャーなんだろうか?俺の最初の個展も俺がまだ大学に行ってる時だった。あの頃も写実だったけど、静物とか水の流れるようなランドスケープが多かった。

「久保木さんのギャラリーは、トレンディーな若者のファッションストリートにあって、見に来るのは多分アネットみたいなヤツばっかりだよ。」

「そうなの?」

「行ったことないんだろ?これから行ってみよう。見たら安心するから。」

「ほんと?」

食べる物が来たら、光軌は猛烈な勢いで食べ始める。

85

「え!こんなに狭いの?」

光軌は素っ頓狂な声を上げる。

「こんな家賃の高い場所に、大きな店出せないだろ?」

久保木さんはいなくて、客は数人。今展示してあるのは若い女性のイラスト。光軌はそのイラストレーターと話しをしている。それを聞いていると、彼女はまだイラストの学校を出たばっかりだそうだ。絵は綺麗な花とかテディベアとかアニメっぽい人物とか。よくあるイラストの題材。帰り際に光軌は、

「維織はあんな狭いとこに、どうやって絵を飾るつもりなの?」

「さあ、全然考えてない。」

「個展もう来週でしょう?」

「これから考える。どうせ暁登がモデルやった絵を叩き売るつもりだから。」

「そうなんだ。あんまり深刻に考えることないな。」

86

そう言ってた割に彼はまたナーバスに戻って、自分の部屋に閉じこもって絵を描いている。なぜか俺が彼の学校の宿題を手伝っている。レポートとか、俺がざっとでっち上げて、後は彼が自分で文章を校正する。自分が普段使わない漢字とかを平仮名に直したり。そんなことをしているうちに、俺の個展の日になった。ここでは暁登のギャラリーみたいにオープニングパーティーもないし。でも朝方、若者が入って来て、サインを求められた。俺にもファンがいるんだな、って嬉しくなった。俺のファンは金を持った年上のコレクターだけだと思っていた。夕方近くになって、驚いたことに暁登がひとりで現れた。ビックリしている俺にひと言、

「ネットで見た。」

そしてヨーロッパ人がするみたいに、俺の両頬にキスをする。そしてそれを、花を持って来た光軌に見られた。光軌は走り去って俺はあとを追って、やっと腕を捕まえて、

「アイツはヨーロッパに住んでたから、あんなの挨拶に過ぎないよ。」

「男同士ではしないでしょ?」

「それは俺がずっとアイツの女だったから。」

なんでそんなこと言ったのか分からないけど、光軌は俺に花を投げつけると、走って行ってしまった。俺は道に落ちた花を拾ってギャラリーに戻った。暁登が、

「懐かしい絵ばっかりだね。こんなに安くして。この倍でも売れるのに。」

そう言いながら絵を観て回っている。

「お前の絵なんて邪魔だから、サッサと売ってしまいたい。」

暁登は鼻で笑って、俺の顔をジロジロ見詰める。俺は腹が立ってきて、

「邪魔しに来たんならサッサと帰ってくれ。」

「随分な言い方だな。」

そう言い残して、夕暮れの街に消えて行った。

87

家に帰ると、光軌の部屋は開けっ放しで、絵の道具やキャンバスがゴッソリなくなっている。今度は置き手紙もない。俺はあの時みたいに無意識にオーバードースでもして、1週間くらい意識不明になりたかったけど、俺の個展はまだ終わっていない。俺にも最低限の責任感はあるんだな。どうすればいいんだろう?でも暁登とはなんでもないんだから、ただの誤解に過ぎないわけだし。念のために電話をしてみたけど、やっぱりつながらない。前回は学校しか知らなかったけど、あれからさり気なく実家の住所を聞いておいた。ほんとに尋ねることになるとは思わなかったけど。ギャラリーの帰り、実家を訪ねた。母親が出て来て、俺が光軌と一緒に住んでる、と言うと家に上げてくれた。光軌と雰囲気のよく似た静かな感じの女性。

「そろそろバイトから帰って来る頃ですよ。」

って言ってくれて、しばらく世間話をしていると、玄関のドアが開く音がして、そしてすぐまた閉まる音がする。そうか、俺の靴があったから。光軌の母親は、

「家は母子家庭で可哀想だからって、甘やかしてしまって。」

そして彼女は目を細めた。もしかしたら光軌が帰って来て、嬉しいんじゃないかな、ってふと思った。「あの子は頑固な子ですけど、怒っても大抵短くて3時間、長くても3日くらいしか持ちませんから。」

88

3日と言われて待つことにしたけど、光軌が管理している俺の薬がどこにあるか分からない。人の部屋を捜すのもイヤだし。木越さんの病院に電話しようと思ったけど、自分一人で長いこと電車に乗って行けないような気がする。痛み止めを買って飲む。少しは胸の痛みに効くような気がして。決められた量の3倍くらい飲んだら、さすがに電車の中で立っていられなくて、席を譲られてしまった。それからはタクシーで通うことにした。ギャラリーに行って機械的に接客をして、これだけ値段を下げてもまだ値切るような客もいて、俺がすぐ言うことを聞きそうになるから、久保木さんがしっかり俺のことを見張っているようになった。3日だけ待とうと思ってたけど、昼間は痛み止めを大量に飲んで、夜は酒を飲んで、そんな無謀なことをしてるうちに、とっくに3日が経って、それから知らないうちに俺の個展が終わって、俺はこれでもう、自分の身体を好きなようにできるって思った。いつかみたいに、5日間ということはなかったけど、2日ちょっと意識がなく、ベッドにいた。ひとりで起き上がって、家は静かで、また元のようにひとりで生きていくんだなって、やや冷笑的な気持ちになる。意味もなく惰性で冷蔵庫を開ける。今度は光軌からの手紙は入っていない。もうすぐ元のように俺のフリーザーは氷とアイスパッドだけになるんだろうなって思う。光軌と岡田君の合同展は、久保木さんがしっかりオーガナイズしてくれるだろう。俺のやることはもうなにもない。光軌とアネットがモデルのキリストの死と、それを嘆く聖母マリアの絵。もう一息ででき上るところだったけど。このままモデルなしで仕上げようと思って絵筆を取ったけど、やっぱり上手くいかない。天使の間にカナリアを3羽飛ばした。この絵が俺の遺作になるんだろうか?死はいつも俺にとって魅惑的だった。光軌に会うまで。最後にモデルを頼んだ時、光軌は疲れ切って死んだマネをしている間にスヤスヤ寝てしまった。それはまあ、いいんだけど、アネットはエクササイズをすることと、インストラクターの彰直に夢中で、なんだか嘆きの顔はしてなかった。

89

現実逃避とそれに続く自殺願望。それはどうしても抜けない。病院に行くのはとっくに諦めた。あんな遠い所までひとりで行けない。仕事をしていない時間はベッドの中にいる。絵は全く描いていない。そういうことは珍しい。滋通が新しい絵を届けに来て、俺の様子に驚いていた。ヒゲも剃らないし、パジャマに毛の生えたヤツしか着てないし。できることはないか、って聞いてくれたけど、笑って誤魔化した。光軌が出て行ってからもう2カ月くらいになる。絵の調子はどうなんだろうか?自信がなさそうだったから心配だけど、彼ならきっと上手くやるだろう。酒の量が増えていくのが自分としても困ったことで、ありとあらゆる国のウォッカを買ってみて、結局、安いアメリカ製のが1番気に入った。高いフランス製のは開けてひと口味見をしただけで、俺には洗練し過ぎていて、そのアメリカ製のを買って来て、何本も空けた。考えて、やはり光軌の部屋を捜して、病院でもらった抗うつ剤を見付けた。大した量ではなかった。それと酒を一緒に飲むと、きっと1日や2日は眠れる。それはこの週末に決行することに決めた。金曜日のまだ明るい時間から酒を飲み始めて、判断力が鈍ったところで薬を飲む。オーバードースなんて普通、女のすることだ。どうして俺は、暁登の女だったって言ったのだろう?ヘルムート・バーガーはヴィスコンティ監督の女だって言われてたらしい。そのことを思い出したのかな?ゲイの戯言?よく分からない。俺がよく分からない、という時は、分かってることだって、光軌が言ってた。俺はもう暁登には興味はない。正直、昔の彼にはまだ思い出があって、簡単に忘れることはできない。でもそれはもう、いなくなってしまった昔の彼だから。

90

金曜の夕方寝て、起きたら月曜日の朝方だった。思ったより強い薬だったな。それなのに何度も目が覚めた。起き上がって時計を見た。それはなかなか進まなくて、でも見た時の曜日が分からないから、ほんとのところは分からない。今の分からないは、ほんとに分からない。時計を見たら、今、朝の2時で、朝の3時に死ぬ人が1番多いって聞いたことがあって、3時に起きなくてよかったと思った。もし3時に起きたら、きっと自分のことを死んだと思っただろう。マンションの部屋をウロウロして、残酷なことが俺の狂った頭をよぎって、大事にしていた観葉植物をハサミで切り裂いて、みんなゴミ袋に詰めてしまった。ベッドルームやスタジオにあった、長い間生活を共にして来た植物。背が高い木が多かったから、大きなゴミ袋が4ついっぱいになった。生きている物が側にあるのが我慢できなかった。やってしまって、植物が可哀相で泣いてしまった。もう1度袋から出そうと思ったけど、あれだけ根元から切ってしまって、また生き返るとは思えなかった。自分を殺したかったのに、大事な植物を殺してしまった。ひどい罪悪感を感じる。そんなバカなことをしているうちにすっかり疲れてしまって、またキャビネットや引出しの中をかき回して、なにか目ぼしい物はないか捜した。光軌がすっかり綺麗にして行ったから、薬入れは空っぽだった。バスルームで自分を見たら、まるでホームレスみたいに酷い様子だった。どうでもいいと思ってそのまま外に出た。ドラッグストアは閉まってたけどコンビニは開いてて、でも死ねそうなものはなにもなくて、俺は首を吊る勇気もないし、せいぜい薬で数日寝て、現実逃避をするくらい。心底死にたければ、とっくに首を吊っている。痛み止めをあるだけ全部買った。小さい箱に少ししか入ってなくて、まあ、コンビニならそんなもんだと思ったけど、店員に聞いたら、そこにあるだけだって言われた。本当のことを言ってないのは顔を見て分かった。家に帰って、ゴミ袋を見て、やっぱり袋を破って中身を見た。そしてネットで真剣になって調べて、その中のいくつかの木は、丈夫だからまた生えてくる可能性があるみたいだった。根はそのまま土に戻して、茎は水に挿した。もしかしたら新しい芽や根が出て来るかもしれない。あんなに大事に育ててきたのに、と思うと後悔の念に駆られる。もし生き返るなら、俺はなんでもしようと思った。なんでもってなんだろう?分からない。今の分からないは、本当は分かっている。光軌の言うように。

91

もう朝の5時になっていた。俺は1週間ぶりにシャワーを浴びて、綺麗にヒゲも剃った。しかし顔色は死人のようだし、目も憔悴している。まさかこんな時間に人様の家に伺うわけにはいかない。何時まで待ったらいいんだろう?それより学校へ行った方がいいんだろうか?学校へ行ったからと言って、会えるとは限らない。いざとなったらなんでもできるだろうと思って、学校の始まる時間に、例のカフェに行った。そこは何度も来たことのある、アートスクールのカフェなんだけど、通りに面していて、外からも客が入れるようになっている。近所の主婦のグループがいて、なんだかうるさい。俺は学校の出口から1番近いテーブルに座る。そこからでも、そのグループの声が聞える。みんな子供の先生の悪口を言っている。先生になんかなるもんじゃないよな。どんなに一生懸命やっても報われない。俺がここの講師だった頃を思い出す。光軌とはどうやって知り合ったのだろう?あの時俺が酔払って、彼が俺をタクシーに押し込んで、家まで送ってくれた。そしてあっちが俺の所に転がり込んで来た。こんな所に座ってて、彼に会えるんだろうか?生徒を捕まえて、捜してもらおうかな?いざとなったら、自分で校舎に入って行く。そこまでしないと、俺の植物に申し訳ない。そんな変なことを考えていると、なんとこないだ売り込みに来て、光軌と一緒に合同展をやることになった岡田君がカフェに入って来た。

「あれっ、先生どうしたんですか?」

「実は光軌を捜してる。」

「一緒に住んでるって聞いてますけど。」

俺の必死な様子を見て、彼は校舎の方へ戻って行った。そして10分程して戻って来て、

「光軌は授業中で、でも実習だったから、教室に入って先生のこと言っときました。」

「ありがとう。君達の作品はどうなってる?」

「まあ、なんとか。もうあと3週間ですからね。ジタバタしてもしょうがないですよ。」

「余裕だな。光軌は大丈夫だろうか?」

「いつか俺が、自分の描きたいものを描けって先生が言ってただろ?って言ってやったら、そうだよなって。」

「なに、その先生って俺のこと?」

「そうですよ。覚えてるでしょう?」

「まあ。」

「自分の言ったことには責任を持たないと。」

「そうだな、そうだよな。」

俺は、光軌にちゃんと付き合うって言って、それから一生面倒見るとも言った。思い出した。言ったことには責任を持たないと。それから彼と一緒に暮らして、俺の人生で一番幸せだと感じたことも思い出した。俺の人生なんて大したものではないけど。周りにはロクな男がいなかったし。岡田君が時計を見て、

「授業もうじき終わりますよ。」

「君、ちょっとここにいてくれない?」

「いいですよ。ついでだから、合同展の打ち合わせしましょう。」

「打ち合わせって、俺は関係ないんだろう?」

「先生が最初に俺のこと久保木さんに紹介したんでしょ。責任持ってくれないと。」

また責任か。

「光軌、呼んで来ます。」

岡田君は席を立って、次に現れた時は光軌も一緒だった。彼は俺の顔を見ずに、

「打合せって聞いたから。」

って、誰に言ってるのか分からないほど、遠くを見てつぶやいた。俺は自分が殺そうとした植物達のことを心に描く。もし俺がこの若者の心をもう一度つかめたら、きっと彼等も生き返る。

「作品はどうなの?」

「描きたい物を描いてるだけです。」

「よかった。」

それを聞いて光軌はちょっと不思議そうな顔で、今度は俺の方角をチラッと見る。でもまだ顔は見ない。

「なんなんですか?ふたり共。ケンカかなにか?」

岡田君は呆れたような調子で、

「ダメですよ。合同展のタイトルが、ハッピーに弾ける色達、なんだから。ハッピーにいかないと。」

俺と光軌は黙り込む。岡田君は、

1度先生にも俺達の作品を観てもらいたいです。いつがいいですか?」

そんな風に聞かれると、やらざるを得ない。

「俺はいつでもいいよ。」

「じゃあ光軌と一緒にスタジオにお邪魔しますから。」

次の授業が始まって、ふたり共校舎の中に戻って行った。

92

玄関のドアを開けると、光軌と岡田君が一緒に入って来る。光軌は俺の背の高い植物達がなくなって、代わりにまだ床に残された、無残に切られた残骸を見て、

「どうしたんですか?」

ショックのあまり、俺の目を見る。彼が俺の目を見るのは久しぶりのこと。俺はなんて言っていいか考えたけど、正直に言うのが正しいなって思ったから、

「生きてる物を見たくなくなって。でも、ああやって水に挿しておくと、根が出て来るらしい。」

俺がそう言うと、光軌は部屋部屋を見て回って、ゴミ箱から俺がコンビニで買って来た、大量の痛み止めの空箱を見付けた。でもその時は彼はなにも言わなくて、岡田君が自分の絵をテーブルの上に並べ出して、光軌もそれに習って、自分の絵を並べ始める。スペースがないから床にも敷いて歩く。今日、光軌がここに来たということは、やっぱり俺になにか言ってもらいたいのだろうか?俺になにが言ってやれるのだろう?って考えていると、やっぱり正直に言うしかないなって思う。

「ハッピーに弾ける色達。」

俺は口に出してみる。

「ふたり共あんまりハッピーな感じの絵じゃないのに、なんでそんなタイトルを?」

岡田君は、

「ハッピーには見えないかも知れないけど、その色達の下のハッピーさを感じてもらいたい。そうやってふたりで決めたんです。」

そう自信を込めて話す彼に反して、光軌は、

「俺はハッピーってなんだろう?って考えながら描いたから。」

少し動揺してるみたいに聞える。俺が岡田君に、

「そのタイトルはもう決定なんでしょう?」

と聞くと、

「そうです。もう印刷に回ってるから。ネットの情報誌にもそのタイトルで載ってるし。でもどうしてですか?そのタイトルそんなに似合いませんか?」

「分からない。」

光軌はそれを聞いて、俺に向かって、

「維織が分からないって言う時は、分かってるってことだから。ハッキリ言って。」

「どっちにしろもう遅いんだろ?」

岡田君が、

「まだ3週間ありますよ。もっとハッピーっぽくしたいんなら、これから少しそういうの描いてもいいですよ。」

と言い出して、光軌は、

「俺はこれ以上ハッピーになれない。ハッピーになりたいと思って描いたけど、それがハッピーに見えないんなら仕方がない。」

なんだかぶっきらぼうに。俺はどうしたらいいんだろう?作品は水準以上だと思う。俺自身にも、どうしてそんなにタイトルにこだわるのか分からない。岡田君の絵には、相変わらず人や動物の幽霊がいる。光軌の新しい絵は今までよりも、強い色が観える。チューブから直接絞り出した色。叫んでいるかのような。もしこれがあの、流行りのブティックに囲まれたギャラリーに飾られるとしたら。人々は普通、タイトルなんて気にしない。俺にとってハッピーに観えなくても、あのファッションストリートを歩く若い子達にはハッピーに観えるのかもしれない。

「久保木さんはなんて?」

岡田君が、

「カラフルでハッピーそうだって。」

「そうか。やっぱり俺の目が可笑しいのか。」

「あと何点か、本気でハッピーな絵を描きますから。」

そう言って彼は先に帰って行った。

93

光軌と俺だけが残された。彼はまだスタジオの床に散らばっている、俺が破壊した木や土を見て、

「どうかしてる。木越さんには会いに行ってるの?」

「いや。」

「どうして?」

「ひとりで行くには遠過ぎる。」

「俺は維織に一生ついて回れるわけじゃないから。」

俺はここでなにか言わなければ、と思ったけど言葉にならない。そこで思い出す。正直に言うしかない。

「俺と暁登にはもうなんのつながりもない。」

「それだけじゃない!維織はいつも他の男のこと考えてる。」

「それは考えてるだけで、好きだからじゃない。」

「なんで俺はいつも維織の考えてることが分かるんだろう?」

「それじゃあ、今俺が考えてることも分かるだろう?」

光軌は黙って考えている。ほんとに俺の今の気持ちが分かってくれたらいいと思う。

「俺は頭が変になって、こんなことをしてしまったけど。」

俺はまだ床に落ちている枝を拾う。

「もしこの木が生き返るためならなんでもしよう、って決めたんだ。そして君に会いに学校に行った。覚えてるだろう?俺達一緒に生活して幸せだっただろう?あれをもう一度できないか?」

光軌は自分の絵を観て、

「先生は俺達に、人のことは気にするな、描きたい絵を描け、そうすれば絵が売れるって言ってたでしょう?」

俺は今更、光軌が俺のことを先生って呼ぶのを聞いて、つい苦笑してしまう。彼はムッとした顔をする。

「それから先生は、自分の描きたいものを見付けるのも大変だ、みたいなことを言って、それから自分の中の真実を見付ける訓練をしろって。」

正直言って俺、そんなこと言ったの全然覚えてない。その程度の教師だったんだけど。

「だから今とっさに考えただけで、実は自信ないんだけど、自分の中の真実で言えば、俺は維織と一緒にいたい。」

「ほんとか?」

「だから自信ないけど。」

俺は光軌を抱き締めて、それは俺がどんな男にもしたことのない愛のこもったハグで、彼もちゃんとそれに答えて、俺を抱き締めてくれた。

 

 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください